シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

183 稀有書 59 1855年の自殺観

f:id:danbuer:20210612100852j:plain

ジョセフ・ハイドン著『起源の辞典』1855

   本書は、1万5000以上の項目がアルファベット順に並べられている。
それは聖書やギリシャローマの古典はもちろん、当時の百科事典まで参照にされている。現代の考古学や物理学、科学知識のレベルになかった当時の知識のレベルを確認することができ、知識そのものの変遷を知る助けともなる。ここでは「自殺」の項目を取り上げた。

●自殺の歴史
 ユダヤ人の歴史に記録された最初の例(サムソンの例を超える)は、紀元前1055年のサウルの例(編者註.サウルはペリシテ軍との戦いで、ギルボア山で息子たちと共に追い詰められ、剣の上に身を投げて自害した)。ギリシャとローマの著作家アポロド−ロスは、それを犯罪と見なし、問題のある手を体から切り取って燃やした。
  ローマの歴史の初期に記録された唯一の事例は、プリスクスの治世に発生した。兵士たちは下水道の建設を命じられて恥辱を受けたと考え、紀元前606年に自殺した。しかしその後、紀元前45年の哲学者カトーのように、著名な男性が自殺した事例が発生した。
 ローマカトリック教会では、6世紀に聖体拝領では自殺などを記念してはならないことが定められた。土地と財産の没収を定めたこの教会法は、議会でイギリスの成文法に認められた改革まで続いた。
 火によって自殺した事例は3つしかない。エトナ山の火口に身を投げた哲学者エンペドクレス。 彼を模倣して、1820年にベスビウスの火口に身を投げたフランス人。 1811年頃に鍛造の炉に飛び込んだイギリス人である。
 プルタルコスは、ミレトスの処女たちが自殺への説明のつかない情熱に感染し、彼女らは友人の涙と祈りによっても防ぐことができなかったと述べた。しかし、自殺したすべての若い女性の遺体は、裸にしてさらすべきであるという法令が出されると、すぐに異常な狂乱にピリオッドがうたれた。イングランドでは、ジョージ四世の制定法(1823年)まで、遺体は交差点に埋葬された。 (604p)
出典  Dictionary of dates, and universal reference by JOSEPH HAYDN.1855