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179 稀有書 55 ヒトラーと補給戦

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クレフェルト『補給戦』(英語版)

 クレフェルト『補給戦』(1979)は、戦争における兵站の重要性を説いた名著といわれるが、今読んでも古さを感じさせないのは、兵站の役割の重要性が認識されてきたことからもわかる。  ヒトラーのロシア侵攻(1941.6月 - 12月)について、これまでに多くの本が発行されているが、どれもドイツ軍の敗因の一つに、兵站(へいたん)をあげている。陸上での補給手段は列車か車輛だが、ドイツ軍はその両方に問題があったという。以下は、クレフェルト『補給戦』5章「自動車時代とヒトラーの失敗」からの抜粋である。
●輸送手段は列車か自動車か
 ヒトラーとその将軍たちは、輸送を装甲車に賭けた際、より機動性のある補給手段を工夫する必要があった。補給部隊の自動車化が、戦場で必要不可欠としても、戦略的な利点は疑問視されていた。1939年当時で、一車両の鉄道輸送能力は、トラック1600 台に値した。実質積載量との比較では、200マイル以上の距離では鉄道のほうが優れていた。そのためドイツ軍の主要輸送手段として、自動車が列車に替わるチャンスはなかった。(136p)  ヒトラーが再軍備に乗り出した1933年から39年までの自動車生産能力では、陸軍の需要に対応できなかった。そこで民間部門から大部分の自動車を調達したため、すべての自動車部品の供給は非常に困難になった。(138p)
●兵站の組織
 補給任務は2つのあり、一つは補給ラインの両端、他方はその中央部を揮っていた。ポーランド作戦では、敵味方両軍による鉄道破壊で、兵站組織は崩壊寸前であった。他方道路は悪路のため、自動車輸送車両の損失は50%以上に達した。(139p)
●悪路との戦い
 ドイツ国防軍の兵站編成は、鉄道および水路の輸送は陸軍総司令部(OKH) であり、一方、自動車輸送隊は、OKH の兵站総監が指揮していた。補給任務は鉄道線が利用できないうちは、重輸送部隊が受け持つが最初から多くの問題に遭遇した。
 ロシアの道路は数が少なく、あっても悪路であった。砂利道路が作戦3日目に悪化し始め、6月の最初一週間には降雨のために沼地化した。そのため輸送隊の稼動数が急速に減少し、悪路のために燃料の消費量が予想より1.5倍にふえた。一方列車輸送は、ロシアの鉄道線がドイツとは異なる軌間のため、貨車の利用はロシアの列車を奪うことが必要だった。(148p)

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経験のない軍人が使ったロシアでのドイツの鉄道(hgwdavie.com 2017.5.9)

●ドイツの敗因
(1)モスクワへの攻撃目標を3カ所(レニングラード、モスクワ、南方の資源地帯)に分散せず、モスクワに集中すべきだったという説がある。しかし兵站状況からみて、この解決策は不可能である。なぜなら利用できる道路と鉄道線が少なかったため、モスクワ攻撃軍に、補給ができなかったと思われるからである。
 10月初め、攻撃のために70個師団を集結させたが、この鉄道と燃料補給に重大な困難が生じた。従ってその2倍の軍隊であれば、前進基地がつくれるはずはなかった。(167p)
(2)モスクワに入れなかった要因では、道路の泥沼化を最重要というのが一般的見方だ。確かに悪天候でドイツ軍は2、3週間遅れた。だが鉄道輸送の危機は、ぬかるみの季節以前から起こっていた。10月の間、鉄道の稼動は絶望的なまでに低かった。そして燃料補給はドイツ本国での不足のためにゼロに等しかった。
 こうした鉄道輸送の崩壊が起こらなければ、恐らくボックは実際よりも一週間早く攻撃を再開できたであろう。遂に凍結が始まった時、自動車輸送隊よりも鉄道のほうが被害が大きかった。自動車輸送隊は11月になっても貴重な任務を果たしていたが、鉄道は機関車の不足のため、ほとんど役割が低下した。(167p)
(3)ドイツ軍の敗因は、自動車に兵站制度の基礎を置いたことが原因と指摘されてきた。確かに自動車を鉄道敷設に振り向ければ、10月中にモスクワに接近できただろう。しかし、たとえドイツ軍が大量の軌道用車両を生産できたとしても、それらに燃料と予備部品を供給するのは絶対的に不可能だったからである。(168p)
(4)自動車輸送では、弾薬を重視して燃料を軽視したため、途中で燃料切れとなり、弾薬は野天に放置されることになった。(170p)
 出典 マーチン・​ファン・クレフェルト「補給戦」(原書房1980)