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181 稀有書 57 スターリングラードの狙撃術

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ジョン・ウェスト著「フライザブレイン/都市狙撃芸術」

 映画『アメリカン・スナイパー』(2014年公開)を見てわかるように、現代世界がますます都市化するにつれて、世界の終わることのない地域紛争の発生に、スナイパーの活躍の場はなくなることはない。
 ジョン・ウェスト著「フライザブレイン/都市狙撃芸術」は、「ゲリラ狙撃兵の訓練と装備から実際の都市ゲリラ狙撃のあらゆる側面について読者を教育するよう努めている」と序文にあるように、いわゆる一般向けのハウツーものではない。しかし、テロなどの都市型の事件で、巻き込まれるのは一般市民である。そうした意味では、彼らの訓練の一端を知るのも有益かもしれない。以下は、本書の中でも専門知識の必要ない、有名な戦史部分をとりあげた。 

●スターリングラードでの狙撃
 現代の都市狙撃の議論は、スターリングラードから始まる。
1942年9月から1943年2月まで戦われたスターリングラードの戦いは、戦争史の中で最も血なまぐさい都市紛争だった。侵攻するドイツ軍と防御するソビエト赤軍との間のこの残忍な争いで、200万人以上の兵士と一般市民が死亡、負傷、または捕獲された。ドイツの死傷者とその同盟国の推定値は80万人にとどまるが、ロシアの損失は100万人を優に超えた。
 スターリンは公式の数字を国家機密にしたため、ロシア人の正確な死傷者数を知ることはできないという。スターリングラードの街路で血を流した、これらの膨大な死傷者は、平均的なロシア兵の平均余命が24時間未満であることを意味した。
 都市での戦闘は非常に激しかったので、ドイツ兵は意図的に自分自身を狙い、皮膚に火傷を負わないように、パンの塊を撃ち抜いた。この「傷」が恐ろしい都市から、後方の病院へ送られるための手段だった。
 ロシア人にとって戦場からの脱走は深刻だったので、スターリンの秘密警察である内務人民委員部(NKVD)は、一師団全体の男性に相当する1万5,000人近くの兵士を臆病者として処刑した。両陣営の男性は、人間の耐久力の限界を超えて押しのけられ、ひどい感情的、精神的、肉体的傷を負った。(7章「スターリングラードでの狙撃」)

●天才スナイパー・ザイツェフ
 ロシアは狙撃兵の使用に非常に積極的で、ドイツ第6軍の指揮官であるフリードリヒ・パウルス将軍(1890 - 1957)を狙撃しようとした。
12月13日、ロシアの諜報機関は、パウルスの司令基地が市内にあると考え、彼を殺すために、4人の狙撃チームが派遣された。狙撃兵の1人はタニア・チェルノワ(Tania Chernova)で、もう1人は射撃の名手で彼女の教師のザイツェフ(Zaitsev)である。チームががれきと雪の中で、ドイツ軍にうんざりしているとき、チームのリーダーの女性があやまって地雷に足を踏み入れた。
タニアは爆発で重傷を負い、ザイツェフも手術のためにすぐに野戦病院に運ばねばならなかった。
 現代の警察が凶悪犯罪者の分析を行うように、ザイツェフ(1915 - 1991)も敵のドイツ軍の行動を研究した。ザイツェフは、誰が経験豊富な狙撃手で、誰が初心者かをすぐに識別できた。彼は1942年11月10日から12月17日までの間に225人のドイツ軍将兵を倒している。
 ドイツ兵はロシア兵と同じ数と質の狙撃兵を持っておらず、ザイツェフが行ったような狙撃技術はまれだった。代わりにドイツ軍は、歩兵の攻撃、迫撃砲、砲兵、空爆、対戦車砲など大規模な武力で対応した。不幸にもこの都市に留まることができたロシア人は、ドイツの兵力とスターリンの金床の間に閉じ込められ、大衆の中にロシアの狙撃兵を隠すことはできなかった。
 1942年8月に戦闘が始まる前は、スターリングラードの市民人口は85万人だったが、終戦時にはわずか1,500人になっていた。(7章 編者/数字は未確認)
出典 Fry The Brain/Art of urban sniping by John West (2008 )