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134 稀有書10 『ヨーロッパ十字軍』

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『ヨーロッパ十字軍』表紙

 34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(1890 - 1969)は、1942年3月作戦部長となり、少将となった。ついで同年6月ヨーロッパ戦域米軍司令官としてロンドンに派遣され、11月北アフリカ侵攻に先立ち同方面連合軍最高司令官に任ぜられた。1943年12月に連合国欧州派遣軍最高司令官としてノルマンディー上陸作戦の計画を行い、1944年6月6日(D-デイ)とする決断をした。
 大戦手記『ヨーロッパ十字軍』は、彼がサン・アントニオに司令部を置く第3軍の参謀長に務める所から始まり、ドイツの分割占領と、彼のモスクワ訪問迄を具体的に記述している。次の引用は、彼が4月12日、ナチの隠匿財宝を発見したあと、ドイツ軍の強制収容所を視察する場面である。(このときの怒りの感情が、ドイツ人捕虜に対する政策に影響したという説がある)

●ユダヤ人収容所  
 またその日、私はドイツの強制収容所というものをはじめて見た。それはゴータ市の近くにあった。まったくいいようのないナチの残虐性、なんの仮借もない人間性の冒涜ーこうした事実を目の辺りに見たとき、私の感情がいかに激しく反発したか、私にはとても説明することができない位だ。それまでにも私はただ一般的な話として、また人伝てでこうしたことを聞いてはいたが、この時ほど強い衝撃をうけた経験は私にとって初めてであった。
 私は収容所のあらゆる場所を隅なく見て廻った。いつかアメリカでも、「ナチの残虐の話は単なる作り話に過ぎないー」というような考え方が生れてくるような時があるかもしれない。その時、私は実見者の一人としてはっきり証言できるようにしておかねばならないと決心したのである。私に同行した者の中にすっかり見て廻ることができなかったものもある。おそらく正視するに耐えなかったのだろうが、私自身はすっかり見た。見たばかりではない、パットン軍の司令部に戻ると、すぐその晩パワシントンとロンドンに新聞記者と国会の代表者をすぐドイツに派遣してほしいと申入れたのだった。これによって、この事実がいささかの疑いを残さぬまでに米英国民の前に明かにされねばならぬと考えたからであった。(出典 アイゼンハワー著『ヨーロッパ十字軍』21章409頁、朝日新聞社1949年)