シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

205 稀有書 81 騒音のなかの集中

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碁盤に向き合うジョッシュ・ウェイツキン

 何らかの事物に集中して取り組んでいる最中に、突然何かが起こったとする。その瞬間にどういうリアクションをするかは、心理状態によって違ってくる。たとえば、気を散らされまいと神経質になっていたとしたら、そのときの心理状態は、緊張状態にあるといえる。
 しかしチェスの名人のこの作者ジョッシュ・ウェイツキン(映画『ボビー・フィシャーを探して』は、幼年の頃のジョッシュを描いたもの)は、騒音のなかにあっても集中力を切らせないためには、訓練が必要であると説く。なぜなら、チェスの試合では、相手の気持ちをいらいらさせるために、わざと机をコツコツ叩くというテクニックが普通に用いられているからという。
●騒音でも集中出来るための訓練
 頭の中で雷のように鳴り響くどうしょうもない騒音問題に苦しんでいた彼は、ある日、打開策が思い浮かんだ。この出来事を契機に、騒音問題に立ち向かおうと決めた彼は、より弾力性のある集中力を養う訓練を始めた。唯一残された道は、騒音のなかでも平静を保つしかないことに気がついたのだ。それから彼は、一週間に数日ぺースで、自分の部屋で音楽を大音量で流しながらチェスを勉強した。(71p)
 そして彼は、この訓練の成果を試合の場面で生かすことができたが、彼の探求はさらに先を行くことになる。
 「最終的に、この手のシチュエーションへの対処法は自分の感情を否定するのではなく、むしろその感情をアドバンテージとして利用することにあるのではないかと考えるようになった。自分を押え込むのではなく、その時の気分にピッタリと周波数を合わせることで集中力を高めなければならない。」(75p)
資料 ジョッシュ・ウェイツキン著『習得への情熱ーチェスから武術へ』みすず書房 (2015)

204 稀有書 80 社会万般番付大集

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『社会万般番付大集』大日本雄弁会(1927)

 『社会万般番付大集』のはしがきに次の言葉があります。「自分は番付の作成を畢生の事業となし、既往十余年間に作りしものの実に千をもって数ふると云うも過言ではない。本番付集に収めたものはその中より抜粋した所謂粋中の粋のみである」
 相撲の番付表のように、あるジャンルについて東西にわけ、それを更にくらいの高いものから順に並べていくと、いろいろな事柄が簡単に鳥瞰できるようになるという。これを「明治大正著名変死者番付」のような、ジャンルを問わずにまとめた本は余り見た事がない。これを編者近藤蕉雨(1871-1930) が一人でなしとげたのだからすごい。集めたテーマは340項目。以下はその一部の紹介です。

●古今辞世和歌番付(130頁)
□東方前頭 
・かかる時さこそ命の惜しからめ
      豫(かね)てなき身と思ひ知らずば 太田道灌
・風さそふ花よりも猶我はまた
     春の名残をいかにとかせん 浅野長矩
□西方前頭  
・借り置きし五つのものを四つ返し
      本来空(くう)にいまぞもとづく 一休和尚
・露深き浅茅ヶ原に迷ふ身の
  いとど闇路に入(い)るぞ悲しき 袈裟御前
●大地震火災百人一首番付(310頁)
□東方前頭 
・バラックの宿を立出で眺むれば
  何処(いづこ)も同じ狭き仮小屋
・心あてに探すも知れぬ本所区の
  多く死んだる被服廠跡
□西方前頭 
・焼出され立ち退く先は遠けれど
  未だ汽車も出ず一人歩かむ
・巡り会ひて嬉しや夫(それ)と思う間に
  又はぐれたる火事の晩かな

203 稀有書 79  ベルゼバブの孫への話

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グルジェフの肖像

   神秘学指導者グルジェフ(1866 - 1949)のことは、彼の著書が何冊も翻訳されているので知っている人は多い。ただし彼の教えは難解であるため、それを理解、あるいは実践することは、彼の直弟子でもむずかしいと言われている。
 彼の著書のうちでも、最大の難解な書が『ベルゼバブの孫への話』(1950)である。宇宙人?のベルゼバブが、孫に自分が見て来た地球の進化を語る形式をとっている。作者は読者の意識改革のために、わざとむづかしく書いている。日本語訳でも787頁あり、読み通すのは確かに集中力がいる。以下は21章「ベルゼバブ、インドを訪ねる」のなかの聖仏陀の教えである。日本語版は英語版からの翻訳。原本はロシア語とアルメニア語で書かれ、グルジェフの監修で英訳された。

●2つの宗教
 当時、アシュハーク大陸(アジア大陸?)のこの第三グループの人間たちの間に、互いに何の共通点もない全く独立したいわゆる〈宗教教義〉に基づく、いくつかの独特な〈宗教〉が存在していることがだんだんわかってきた。そこでゼルベバブは、これらの宗教教義を研究してみた。その過程で、後には聖仏陀と呼ばれる者の教えに基づくものが最も多くの信奉者をもっていることを発見したので、それ以後彼は、その研究をするようになった。その結論は、宗教をもつという慣習が誕生してこのかた、そこには二種類の基本的な宗教教義が存在してきたし、現に今も存在しているということだ。
●聖仏陀の役割
 宗教のうちの一つは、ハスナムス(客観的良心が欠如している人間)に特有の精神が機能しはじめた者たちによって生み出されたもの。もう一つの宗教教義は、天からの真の使者によって説かれた詳細な教えに基づくものだが、後者は、この惑星の三脳生物の体内に結晶化している器官「クンダバファー」(妄想発生機能)の特性を撲滅するために送られてきた。この目的のために送り込まれた個人を聖仏陀という。彼は天から命ぜられた仕事を、いかにしたらやりとげるかを真剣に考えぬいた末に、彼らの理性を啓発することでこの目的を達成しようと決意した。(158p)
●教えの変貌
 仏陀の働きにより、地球のこの部分に生息する人間たちにとって有害なあの諸結果は、徐々に彼らの体内から消えはじめていた。しかしここでもまた、みな嘆き悲しむようなことが起こった。不幸なことに、この聖仏陀の教えが、時代を経るうちに、少しずつではあるが実に大きく変化してしまったので、もし聖仏陀が現われても、その教えが自分が教えたものだとは想像だにできなかっただろう。(161p)
●聖仏陀の秘儀伝授
 聖仏陀自身が、彼自ら秘儀を伝授した最も近い弟子たちに、遺伝によって彼らが受け継いでいる器官クンダバファーの本性を駆逐する方法について説明していた時、次のように言った。 『お前たちの中にあるグンダバファーの特性を効力のないものにする最良の手段の一つは、〈意図的苦悩である。そしておまえたちの身体 』が体験しうる最大の〈意図的苦悩〉とは、〈自分に向けられた不快な表現行為〉を耐え忍ぶのを強いる時に生じる』。仏陀のこの説教は、その他の明確な指示とともに、その地に住む普通の人間たちの間に広められた。(163p)
出典 グルジェフ著『ベルゼバブの孫への話』平川出版社(1990)

202 稀有書 78 ヨーロッパ十字軍

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ヨーロッパ十字軍(表紙)

 34代大統領アイゼンハワー(1890 - 1969)は、第2次大戦で連合国軍最高司令官として「ノルマンディー上陸作戦」の計画の実行を、1944年6月6日とする決断を行ったのは有名である。1945年4月12日、彼はパットン将軍と一日を過ごし、2つの出来事に遭遇する。
 彼らはフランス海岸から西北ヨーロッパを横断してエルベ河にまで戦い抜いて来たのである。午前中、彼らはナチの隠匿財産を発見、坑道に2億5000万ドルの金、米金貨も数百万個あったという。またこの日、彼はドイツの強制収容所をみた。以下その抜粋。
●アイゼンハワーが見た強制収容所
「またその日、私はドイツの強制収容所というものをはじめて見た。それはゴータ市の近〈にあった。まったくいいようのないナチの残虐性、なんの仮借もない人間性の冒涜ーこうした事実を目の辺りに見たとき、私の感情がいかに激しく反撥したか、私にはとても説明するととができない位だ。それまでにも私はただ一般的な話として、また人伝てでこうしたことを聞いてはいたが、この時ほど強い衝撃をうけた経験は私にとって初めてであった。
 私は収容所のあらゆる場所を隈なく視て廻った。いつかアメリカでも、「ナチの残虐の話は単なる作り話に過ぎないー」というような考え方が生れてくるような時があるかもしれない。その時、私は実見者の一人としてはっきり証言できるようにしておかねばならないと決意したのである。
 私に同行した者の中にすっかり見て廻ることができなかったものもある。おそらく直視するに耐えなかったのだろうが、私自身はすっかり見た。見たばかりではない、パットン軍の司令部に戻ると、すぐその晩、ワシントンとロンドンに新聞記者と国会の代表者を、すぐドイツに派遣してほしいと申入れたのだった。これによって、この事実がいささかの疑いを残さぬまでに米英国民の前に明らかにされねばならぬと考えたからであった。」(409p)
 出典 アイゼンハワー著『ヨーロッパ十字軍』朝日新聞社1949

201 稀有書 77 雄鶏が塔の上にある訳

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「家畜系統史」の作者コンラット・ケラー

 「家畜系統史」の作者コンラット・ケラー(1848-1930)はスイスの動物学者。彼は1874年にイエナのエルンスト・ヘッケルの下でタコの博士号を取得した。後の研究のために、1882年にエジプトとヌビア、1886年にマダガスカルとマスカレン山脈を訪れた。1898年に彼はチューリッヒの特別動物学の教授に昇進した。以下は「家畜系統史」10章の家鶏の系統史からの引用です。

■鶏の系統史
 ユダヤ人は旧約聖書時代には鶏を全然知らなかった様に見える。ファラオ時代にはナイル谷にも全くいなかった。メソポタミアでは家鶏は西紀前、とにかく紀元前6又は7世紀に始めて現われている。恐らくペルシャ人がそれを伝えたものであらう。インドではそれより遥かに古くから土着している。支那へは紀元前1400年頃に西方から移入されたと言う事である。従ってその歴史上の出現はアジアの南または東南にある馴致発生地を暗示している。
●鶏は偶像崇拝の対象
 原始時代には鶏は偶像崇拝の観念と結びつけられていた様に見える。ツェンダ族(古代のペルシャ民族)に於ては雄鶏は、夜の悪魔を追い払うと云う警戒の象徴として尊重せられた。ペルシャへの進出に際して、警戒心の強い雄鶏の崇界概念は高められ、神聖なものとみなされ、特に死体置場所に見かけられた。火、犬及び雄鶏はペルシャ人の守り神の偶像であった。ペルシャ人は自国の軍の遠征の途上、鶏を分布した。これは紀元前6世紀に小アジアを経てギリシャに到達した。
●鳥占い
 ギリシャではホーマー時代には未だこれは知られていなかった。「ペルシャの鳥」と云うギリシャの名は明らかにその由来を示している。ローマとギリシャとの盛んな交通に際して、これはたちまちローマ人の手に渡り、ローマ人はこの神霊をもった烏を「烏占ひ」として過度に尊重した。誰れも責任を負う事を欲せない様な重大な事件の場合には、「鶏の番人」は鶏を験しにかけた旦奇妙なことには、プリニウスでさえ最も重要な国政が鶏によって左右される、と言うことを発見している。
●塔の上の雄鶏
 アルプスの北部では鶏は西紀の略々初めに現われている。その遺骨はヱルヴェチャ=ローマの植民地ヴィンドニッサに存在していた事が証明せられた。崇拝の意義はゲルマン民族に於ても全く抜け切れなかった。雄鶏の像は教会の塔の十字架の上に備えつけられている。けだしこれは十字架よりは更に有効に悪魔を追い払うからである。(166p)
 出典 コンラット・ケルレル著「家畜系統史」加茂儀一訳 1935 岩波書店(漢字地名をローマ字に直しました)。参照 Archives for Agricultural History

200 稀有書 76 サドとマルクス

「世界人物逸話大事典」角川書店(1996) という本がある。タイトルの通り、世界の著名人物の逸話による事典である。サドとマルクスという縁のない二人が、この本では見開き頁の左と右にあったので、読んでみた。以下は、引用の引用である。

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サド『閨房哲学』フランス語版

・マルキ=ド=サド(1740~1814)の遺言
 ◇フランス大革命開後、晩年のサドは異常なまでに肥満していた。あまりに長い牢獄の生活、散歩の禁止、ついには執筆まで禁止されて、しかし食欲だけは老いても衰えなかった彼は、肉体と精神の運動不足で、ただただ肥満する以外なかったのである。(渋澤龍彦『サド侯爵の生涯』)
◇死の近づくのを悟ったサドは遺言状のなかで、自分の遺体の埋葬場所を指定し、葬式はいかなる形式のものにせよこれを行なわず、墓は地表から隠れるようにと希望し、「余は人類の精神から余の記憶が消し去られることを望む」と記した。だがこの遺言は無視され、ンャラントン精神病院付属の墓地に、カトリック教会の方式どおりに埋葬されたうえ、皮肉にも墓の上には十字架が立てられた。(同前)

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「共産党宣言」(1)マンガ版

・勉強家マルクス(1818~1883)
◇ロンドンの大英博物館の図書室がマルクスの書斎であり、彼は「たいてい朝の6時から夜の7時まで」そこで仕事をした。1862年のころのこと、一人の入館者が一冊の本をもって関覧席をさがしていた。あいている席に坐ろうとすると、当番の図書館員がその人にこう話しかけた。「もしもし、この席はあけておいていただけませんか。ここはドクターマルクスさんのお席です。マルクスさんは必ず来るにちがいありません」」。
 するとその人はびっくりした様子で「ドクターマルクスですって。共産党宣言を書いた人で労働運動の指導者のことですか」。「そうだろうと思います。でもそんなことは私になんの関係もございません。私の存じ上げていますことは、工場内労働についてのわが国政府のこの年報がドクターマルクスのためにここにおいてありますので、あのかたはただ今この年報でお仕事中だということだけです」。
 「毎日なのですか。きょうもくることは確かなのですか」。すると館員は笑顔で答えました。「ど安心下さい。ドクターマルクスは何年もまえから、毎日ちょうど10時間ここでお仕事なさってますのですから。あのかたは、私がこの閲覧室でこれまでお見かけしたかたのうちで、いちばん勤勉で几帳面な勉強家でございます。それに私は20年間ここに勤めておりますもんで、皆さんをよく存じあげておりますので」。(ヴァルター=ヴイクトル『カール=マルクス』、土屋保男『革命家マルクス』)

199 稀有書 75 仇討禁止令

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梅原北明編「近世社会大驚異全史」白鳳社(1931) 復刻版

 本書は明治元年から明治38年までの歴史を、当時の新聞記事から抜粋して編集したもの。2034頁
 ちなみに明治元年の最初の記事は、「幕府瓦解当時における江戸京都の両都市中の落書に現れた珍現象」(月日不詳)であり、最後は大正元年9月27日の「恩赦大赦令公布」である。
 これに追補と、付録1「近世暴動反逆変乱史」と「近世刺客暗殺史」が加わっている。ちなみに暗殺史の最後は明治43年の「安重根死刑に処せられる」の記事である。以下の記事は、「仇討ち禁止令」明治6年2月7日である。

●仇討禁止令(明治6年2月7日)
 「人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に候処。古来より父兄の為に讐を復するを以て子弟の義務となすの風習あり。右は至情やむをえずに出ずるといえども、畢竟私憤をもって大禁を破り、私儀をもって公権を犯す者にして、固より擅殺(せんさつ)の罪を免れず。これに加え甚だしきに至りては、その事の故誤を問わず、その理の当否を顧みず復讐の名義を狭み、みだりに相構害するの弊往々これあり。
 甚だもって相済まず事に候。よって復讐厳禁ずべき仰出候條、今後不幸に至り親を害せらるる者これあるに於ては、事実を詳にし、その筋へ訴出べき候。もしその儀なく旧習に泥し擅殺するに於いては相当の罪科に処するべく候條、心得違いこれなきよう致すべきこと。
                 明治六年二月七日 太政官」
(資料「東京日々新聞」第二百八十五号 (明治六年二月七日)原文の片仮名を平仮名他、直しました)