シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

142 稀有書 18 マクルーハンの思考

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「マクルーハン書簡」(オックスフォード1987) 表紙より 

 「メディアはメッセージである」というスローガンで有名なトロント大学教授マーシャル・マクルーハン(1911-1980)。私は彼の考え方に驚きを持って受け止めた一人であった。コンテンツよりも、メディアそのものが人間の意識を拡張するという発想は、携帯、インターネットなどのメディアを考えると、ますます現実味をおびてきている。彼は、フランスの雑誌「エクスプレス」での対談で、彼の研究方法を次のように語っている。

●結果から原因へ
 マクルーハン「私はあることがなされた場合、まずそこでなにが起こっているかを研究するのです。
 大部分の人びとは、子どもたちがテレビで暴力行為を見ると、子どもたちがどうなるかということを考えるわけです。私はどうかと申しますと、私はそういうことにはいっこうに注意をはらいません。
 私が研究するのは、人びとがなにゆえに暴力を必要とするのかということであって、それはテレビの番組とは関係のないことです。
 私はものごとを結果から原因へさかのぼりながら研究します。われわれが普通やるように原因から結果に進みながらではありません。われわれの知的習慣の逆をゆくわけです」

記者「なぜそういうやりかたをなさるのですか。」

 マクルーハン「ひとつの過程の巻きかたを逆にしてみると、その構造、その図式がはっきりするからです。ところが番組の放送やその受信を研究したところで、送る側からのメッセージや見る側に与える影響の図式は出てこないのです。
 こういうことを私に教えてくれたのは広告なのです。当然のことながら広告業界では、まず宣伝文句をつくることからはじめるのではなくて、つくりだしたいと思う効果を研究することからはじめます。原因は結果を見つけだしてからつくられるわけです。これと同様に経営問題を解決しようとする場合にも、その問題に関して知らないことからはじめるのでして、知っていることからはじめるのではないのです。(…)
 私の言わんとすることは、私は魚がなにをするかを研究するのではなく、魚の環境、魚の周囲を研究するにすぎないということなのです。」(「現代との対話1」早川書房1978年 より)

141 稀有書17 西洋のくじの歴史

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ジョン・アシュトン著「英国の宝くじ史」1893年 扉

 賭け事は、人間の固有の特徴である。さいころでくじの結果を求めるのは、古代エジプトやアッシリアでも行われていた。 聖書には、多くのくじの話に満ちている。土地を分ける手段としてくじが用いられた。 宝くじは16世紀のイタリアで始まり、その名前はフローレンスのロットーに由来すると言われる。初期の記録としては、ファン・アイク未亡人のものがある。1446年2月24日、ブリュージュで彼女の宝くじに2リーブルが支払われたという記録が残されている。

 イギリスの宝くじは、海外から輸入された。その最初の記録として、エリザベス女王朝の1566年という記録がある。イギリス政府の宝くじは、1694年から1826年まで130年以上運営された。 英国の作家ヘンリー・フィールディングの劇「宝くじ」は、1732年に上演され、相当広まっていることがわかる。

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ソリで運ばれる回転式抽籤器

 宝くじが操作された場所は、ホワイトホールからサマセット邸に変えられた。上の挿絵は、1808年にサマセット邸から、クーパーのホールまで回転式抽籤器を運ぶ方法を示している。4輛のそりが使用され、2輛がチケットを入れた車輪を運び、他の2輛は車輪ケースである。警護の役目は近衛騎兵連隊がおこなった。資料(ジョン・アシュトン著「英国の宝くじ史」1893年)

140稀有書 16 名古屋空爆

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アメリカ戦略爆撃調査『名古屋市爆撃の効果』1947.6 原本表紙

 アメリカ戦略爆撃調査『名古屋市爆撃の効果』の翻訳が、名古屋市鶴舞図書館編集で1964年3月に発行されている。この報告は1945年8月にトルーマン大統領の命令によって調査されたもので、名古屋の被害状況がつぶさに理解できる。以下は翻訳の要旨。
●市民と工場に与えた直接損害
 名古屋市に対する爆撃は,1944年(昭和19年) 12月13日、三菱重工業株式会社発動機工場の爆撃に始まり、1945年(昭和20年) 7月24日、愛知航空機株式会社永徳工場の爆撃で終止符をうった。爆撃回数は全部で21回におよび、投下爆弾の量は、14,054トンにもおよんだ。そして、そのうちの71%は、地域爆撃に投下されたものである。(13p)
●市民の直接被害概況
 目標爆撃および地域爆撃を合せた被害は、住宅では被爆前の住宅14万3,600戸の約47%に当る6万7,311戸の全壊または半壊で、死傷者数と被災者数は合計53万7,452人で、被爆前の人口123万人の約44%に当り、そのほとんどが被災者で占められている。(19p)
●医療施設の被害
 たびたびの焼夷弾攻撃により、病院や診療所などの大部分が焼失した。これにともない、病院などにいた医師たちは田舎へ疎開した。したがって残存していた市民は、なんら治療もうけることのできない、みじめな状態に追込まれたのである。(35p)       

       1940年末   終戦時
 病院数      63      36
 ベッド数   4172床  1413床
 医師の数   2134人  1090人

139稀有書15「毛沢東」の作者

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「マオ―知られなかった伝記」のアメリカ版表紙(2005)

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「毛沢東―鮮為人知的故」の香港版表紙(2006)

 「ワイルド・スワン」の著者による、恐るべき新事実を盛り込んだ「新毛沢東像」を描いた衝撃の歴史大作。『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ夫妻が刊行した毛沢東の伝記。日本語版(土屋京子訳)は、講談社で2005年刊行。
 作者のユン・チアン(張戎、1952年ー)は、中華人民共和国出身の著作家。1952年/四川省宜賓市で生まれる。両親は中国共産党高級幹部。
1966年/14歳で紅衛兵になる。1973年/四川大学英文科に入学する。後に講師となる。1978年/イギリスへ留学。1982年/大学で言語学の博士号を習得。イギリス人歴史学者ジョン・ハリデイと同年に結婚。1991年/自伝『ワイルド・スワン』を発表。2005年/毛沢東の伝記『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(夫との共著)を出版。2015年『西太后秘録 近代中国の創始者』を発表。(ウィキペディア=「マオ 誰も知らなかった毛沢東」の詳しい説明が参考になる)

138稀有書14  米占領下の日本の愛

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マーク・マクレランド「米占領下の日本の愛、性、民主主義」2012年表紙

 太平洋戦争終結時の日本の壊滅的な敗北と、1945年から1952年までの主に米軍による占領は、日本政府と同様に、個人の生活に大きな変化をもたらした。戦前の価値観からの急激な変化は、愛や性の領域迄も及んだ。これを双方の国がどう対処したか。以下はその一つの対応策であった。
●友愛の政治
 何世紀にもわたる封建的抑圧から日本女性を解放するというSCAP(連合軍総司令部)の高い理想にもかかわらず、一連の制約を解除することは、他の制約を課すことにつながった。日米関係は、特に日本人女性とアメリカ人男性が懸念している場合、「友愛」の悪影響に関する不安に満ちていた。これらの不安は双方で強かった。日本の降伏から最初の米兵が到着するまでの数週間、日本の当局者は、若い女性を田舎の親戚に送るか、あるいは若い娘や妻が都市から離れられない場合には、屋内にいるよう国民に警告した。
 日本軍がかつての植民地の女性に対して行った残虐行為や、軍が承認した「慰安所」のシステムが日本のメディアで報道されていなかったが、日本の敗北の時点で日本が支配する領土全体の慰安婦は約8万4000人いたと推定された。(…)
 しかし、当局が想定した集団レイプと略奪行為は、新たに到着した米軍によるレイプと誘拐の散発的な報告があったものの、最終的なものではなかった。(…)連合軍の隊員に関する否定的な報告を禁止する、新しい検閲体制が実施される前の9月10日、「毎日新聞」は、進駐の最初の週に9件のレイプが行われたとの報告を伝えた。
 これらの個々の事例は衝撃的だが、日本の占領中に南京などの中国の都市で起きたような大規模な性的虐待は指摘されず、外国軍の到着に関するパニックはすぐにおさまった。
 日本の当局者は、女性を2つの対立する「プロ」キャンプと「貞淑」キャンプにグループ化することを示し、「女性の防波堤」として機能する可能性のあるセックスワーカーの組織を募集して、「良家の娘」を外国人占領者の貪欲な性的欲求から保護した。
「レストラン」、「ダンスホール」、「ビアホール」として指定された一連の施設で構成されるレクリエーション・アミューズメント協会(RAA)には、登録されたセックスワーカーと、他に生きるための選択肢がない貧しい若い女性が採用された。(…)日本では、認可された売春は合法であり、当局は日本軍に「快適な」施設を提供する豊富な経験を持っていた。このようにしてRAAは「並外れたスピードで設置され、不足している建物や施設を確保する優れた能力を示した」(要旨「米占領下の日本の愛、性、民主主義」パルグレイブ・マクミラン発行 55p Love, Sex, and Democracy in Japan during the American Occupation by Mark McLelland)

137稀有書13 アメリカの朝鮮占領

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「世界史のなかの日本占領」日本評論社 1985年発行の表紙

 連合国による日本の占領とはなんだったのか。それは日本に何をもたらしたのか。その過程と結末は戦後の世界史にとって、どんなな味を持ったのか。1983年11月29日から3日間にわたって東京都麹町の番町共済会館で行なわれた、法政大学第8回国際シンポジウム「世界史における日本占領」は、そのような問題視角から日本占領に迫った、最初の試みであり、この本に収められているのはその記録である。(「はじめに」より)
 シンポジュウムに参加された方々は39名で、うち外国の学者は16名という陣営で、知ることが少ないテーマについて貴重な意見がまとめられている。(本書は古書で入手可能)以下はそのなかで、ラファイエット大学助教授のジョン・メルリ氏の報告「アメリカの朝鮮占領」のイントロ部分を記す。

●アメリカの朝鮮占領 (報告者ジョン・メルリ)
 日本に着いてまだ2日目ですので少々時差に悩まされていますが、出席できたことをうれしく思います。しかしアメリカの朝鮮占領について話すことは、特にうれしいこととはいえません。どのような基準に照らしても、アメリカの朝鮮占領は失敗だったと断定せざるを得ないからです。それは数十年に及んだ過酷な日本の植民地支配から解放されて間もない朝鮮を、悲劇的な分断状態にみちびき、人民委員会の組織にみられた自主的に湧き起こる大衆参加の意志を圧殺し、かつては明らかに対日協力派であり、また強力な官僚支配と警察権力をふるう、南朝鮮の右派勢力を政権の座につけたのでした。もっとも重要なのは、アメリカの朝鮮占領が5年後には300万人から400万人、ある推定によれば全人口の6分の1を犠牲にした、朝鮮戦争をひき起こす諸条件をつくりだしたということです。
 しかしそうはいっても、アメリカの国家政策の観点からすれば、それほどはっきり失敗と断定はできない、ということをつけ加えるべきでしょう。というのは、この占領は単に一連の失敗、誤解、下手な構想に基づいた初期政策の連続だっただけでなく、朝鮮半島を全部ソ連の手に渡すことはしないという、戦略的な目標達成のための先制的な占拠行動として、結果のよしあしはともあれ、成功したものだったからです。(78p)

136 稀有書12 火事で焼けた「支那民族誌」

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支那民族誌 第六巻(扉)

●焼失した原稿
「この書は、3年間に11冊を刊行する予定を立て、第1冊(第3回配本)として第6巻「児童篇上巻」を印刷することとし、第2冊目の7巻目を外務省に持込んだのであったが、1月9日の同省の火災でこの原稿と共に、今後の10巻分の原稿も、悉く烏有に帰したのである。(…)この度の火災では、未刊10巻分の原稿約3万数千枚を失った外に、将来に於ける刊行目論見の原稿約5万枚、合計約8万5千枚と共に、多年蒐集した絵画写真、並びに多数の参考書籍等の全部を失った。しかし本書は、もとより現地調査の材料を主として編むものであるから、再度調査することは甚だ困難で、続巻のことも計り難く、一応本巻を以て打切としなければならない」(例言)とあるように「支那民族誌」は3巻だけの出版となった。以下の記事は、第6巻「児童篇」の最後の章である「纏足」の引用である。
●纏足の現状
 この度の支那事変が起る前年の正月に、北京で発行する支那新聞は、北京市政府が纏足の禁止命令を発し、犯す者は処罰するとて、それに対する罰則までも公示していた位であった(…)1932年下半期から1933年上半期までの一ヶ年間に於て、山西省の人口統計を行った際に、 同省内に於ける纏足者をも調査した統計が、同省から発表されているのであるが、この地方は支那に於いて、最も纏足の風習の盛んに行われていた地方ではあるが、その統計によると、15歳以下の幼女に、32万3064人、16歳以上30歳以下の者に、62万5625人の纏足者が現存していたことが知られたということである。そうして見ると同省では、30歳以下のものに当時依然として約百万人近い纏足者があったということになるのである。出典(永尾龍造著『支那民族誌 第六巻』第3章第一節「纏足の現状」支那民族誌刊行会1942年)