シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

135 稀有書11 上海にて

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堀田善衛『上海にて』表紙

 堀田善衛(1918.7 - 1998)の前書きによると作者の上海での生活は1945年3月から1946年12月という。あとがきの日付は1959年6月だから、26歳のときの体験を40才の時にまとめたことになる。


 1945年8月15日に玉音放送が流れ、8月26日には国府軍が上海に入城したときである。この時期に上海にいることは考えるだけでも大変であることがわかる。
 本書のなかで、日本軍の侵略戦争に対する協力者である漢奸の公開死刑について書いた文章が以下である。

 その当時、漢奸や日本人戦犯の処刑は、縷々公開されていた。残酷で野蛮な話であるが、それがそうだったのである。処刑時間のしばらく以前から、偶然に私はその場にいあわせ、そこへ護送車と群集がわあっと乗り込んで来て、動きがとなくなったということもあるが、また私には、日本の政治、戦争に協力した中国人の死を、日本人のうち、誰かひとりでも見てこれを、いかにその方法が残酷無慙なものであろうとも、とにかくそれを見た人がひとりでもいた方がいいであろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢し大量の汗を流して、群衆のたちこめる濠々たる挨のなかに立っていたのであった。漢奸は、首筋から背中に高札をしばりつけられ、それに名前と罪名が墨黒々としるしてあった。引きたてられてその男は、護送車から転げ落ち、芝生に跪いた。高声な判決文朗読があっての後、兵の一人が大きな拳銃を抜き出し、それを後頭部にあてがった。そこで、私は群衆の海の底にしゃがんでしまった。銃声一発、ついでもう一発、二発目は、恐らく心臓に対するとどめであったろう。それで終りなのだ。群衆は、あまりのあっけなさに(?)ぶつぶつ言いながら散って行く。しかしその場に、この処刑見物をほとんどたのしんでいるに近い人々がいたこともしるしておかなければならない。それはまた私にとって了解不可能な『中国』の一つの部分をなしている。が、ここでそれを『中国』とすることもまた誤りであるかもしれぬ。この場合には、それを『人間』と言いなおした方がいいのかもしれない。…私は、嘔きたいのだが嘔けない胸苦しさと恐怖で動けなくなり、横たわった、いまのいままで生きていた人の屍体を一瞬だけちらりと眺めた。後頭部が吹き飛ばされているらしかった。(中略)漢奸の名において、中国では、戦中戦後、恐らく千を越える人が処刑された。(「死刑執行」より)
出典(堀田善衛『上海にて』筑摩叢書157 1969年発行)

134 稀有書10 『ヨーロッパ十字軍』

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『ヨーロッパ十字軍』表紙

 34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(1890 - 1969)は、1942年3月作戦部長となり、少将となった。ついで同年6月ヨーロッパ戦域米軍司令官としてロンドンに派遣され、11月北アフリカ侵攻に先立ち同方面連合軍最高司令官に任ぜられた。1943年12月に連合国欧州派遣軍最高司令官としてノルマンディー上陸作戦の計画を行い、1944年6月6日(D-デイ)とする決断をした。
 大戦手記『ヨーロッパ十字軍』は、彼がサン・アントニオに司令部を置く第3軍の参謀長に務める所から始まり、ドイツの分割占領と、彼のモスクワ訪問迄を具体的に記述している。次の引用は、彼が4月12日、ナチの隠匿財宝を発見したあと、ドイツ軍の強制収容所を視察する場面である。(このときの怒りの感情が、ドイツ人捕虜に対する政策に影響したという説がある)

●ユダヤ人収容所  
 またその日、私はドイツの強制収容所というものをはじめて見た。それはゴータ市の近くにあった。まったくいいようのないナチの残虐性、なんの仮借もない人間性の冒涜ーこうした事実を目の辺りに見たとき、私の感情がいかに激しく反発したか、私にはとても説明することができない位だ。それまでにも私はただ一般的な話として、また人伝てでこうしたことを聞いてはいたが、この時ほど強い衝撃をうけた経験は私にとって初めてであった。
 私は収容所のあらゆる場所を隅なく見て廻った。いつかアメリカでも、「ナチの残虐の話は単なる作り話に過ぎないー」というような考え方が生れてくるような時があるかもしれない。その時、私は実見者の一人としてはっきり証言できるようにしておかねばならないと決心したのである。私に同行した者の中にすっかり見て廻ることができなかったものもある。おそらく正視するに耐えなかったのだろうが、私自身はすっかり見た。見たばかりではない、パットン軍の司令部に戻ると、すぐその晩パワシントンとロンドンに新聞記者と国会の代表者をすぐドイツに派遣してほしいと申入れたのだった。これによって、この事実がいささかの疑いを残さぬまでに米英国民の前に明かにされねばならぬと考えたからであった。(出典 アイゼンハワー著『ヨーロッパ十字軍』21章409頁、朝日新聞社1949年)

133 稀有書9 ハンブルク大空襲

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 1943年7月以降に、焼夷弾で破壊された地域撮影(幅0.5 km幅7 kmのセクション)これらの5階建ての建物は壁だけが残った。
資料 (ゲルマー・ルドルフ編「航空写真の証拠」第二次世界大戦の大量殺戮現場の写真 キャッスルヒル出版社 2020 ) 本書はユダヤ人収容所の航空写真が多く収録されている。

 ドイツの大港湾都市ハンブルクは第二次大戦でイギリス空軍とアメリカ陸軍航空軍爆撃にあった。1943年7月の空襲のうちの1回で火災旋風が発生し、これが何万人もの民間人の犠牲者を出した。
 ハンブルクの戦い(ゴモラ作戦)は1943年7月末に始まる一連のハンブルク空襲作戦で、当時の航空戦史上もっとも被害を出した。
7月28日の午前1時には739機の爆撃機がハンブルクを爆撃した。この爆撃が「火災旋風」を引き起こし、被害が拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、市街は21km²に渡って焼け落ち、街路のアスファルトが発火して防空壕へ避難した者も大勢死亡した。この作戦で民間人4万人がこの空襲で死亡した。ハンブルク上空に到達した爆撃機は2630機で、約9000トンの爆弾を投下、約31万5000戸の家屋が破壊された。
 2年後の1945年2月13日から15日にかけて、連合国軍によるドレスデンへの無差別爆撃では、街の85%が破壊され、死者数は2万5000人を出した。

132 稀有書8 満州国壊滅秘記

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「満州国壊滅秘記」の扉

 作者は、当時満洲国司法部参事官の職にあったが、同時に関東軍嘱託として、関東軍司令官や、総軍参謀長が、満洲国皇帝と会見する際の通訳を担当していた。本書はソ連が参戦した昭和20年8月9日から、溥儀の逮捕、そして旧満州国首脳の一斉逮捕、そして作者の逮捕迄が記されている。

●溥儀皇帝への避難勧告
 軍司令官は、「陛下には、この際早急に後方の安全地帯にお移り願いたいと存じます。」との申し入れを行なった。皇帝の不安にも、その都度「大丈夫でございます。軍はいつでもそれに対処できるよう、常に万全の策を講じております。どうかお心安く思召すように」といいきってきた。そして、関東軍ひとたび蹶起すれば、ソ連軍いかに強大であろうとも、たちどころにこれを粉砕し尽すであろうと豪語してきたのである。だから、たとえソ連が参戦するとしても、関東軍が、無惨に敗れるなどとは、夢にも思っていられなかったにちがいない。(18p)

●作者あとがき
 「世上英雄視されるものにははったり屋が多い。私はそれを、ソ連参戦の前後を通じていやというほど見せつけられた。在留民保護という大任を忘れて、まっさきに逃げだした関東軍。在留民をほったらかして、自分達の家族だけをまっさきに疎開させたその醜状は、歴史の存する限り、永久に汚点として残ることは必定であろう。」(嘉村満雄「満州国壊滅秘記」大学書房1960 )

131 稀有書7 軍人のなかの外交官

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米外交官ロバート・マ−フィ(1894 - 1978)

 外交官ロバート・マ−フィの書『軍人のなかの外交官』(鹿島研究所出版会 1964)のなかで、第一次大戦のベルリン大使館時代から、1958年のレバノン出動までの政治状況を、自分の目で的確に報告している。
 また彼はヒトラー、ドゴール、昭和天皇、吉田茂、蒋介石などと直接対話して、その印象を記述しているのも参考となる。その際、彼は人を批判しない点が美徳であるが、それも外交官ならではの技術だろうか?
 いくつも有益な記事があるが、ここでは彼が駐日大使時代の、朝鮮戦争と日本の対応について触れているカ所を抜粋する。
●朝鮮戦争(1950-53)
 朝鮮戦争が起こったのは、日本人にとってまるで、思いがけない幸いであった。というのは、お蔭で彼らはアメリカその他の国連軍が必要とした補給物資や役務を供給するために、彼らの粉々にこわれていた産業を最大速度で再建することができたからである。韓国が1950年6月25日に、ソ連製の戦車百台を先鋒とする6万の北朝鮮兵士によって侵略された時、マッカーサーは当時日本に駐留していた戦闘態勢の軍隊で使えるものはすべてこれを前線に送り出した。
 元帥は日本政府が安全で秩序整然たる基地を提供してくれるものと確信していた。それに日本人は、驚くべき速さで、彼らの四つの島を一つの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、朝鮮戦争は
戦うことはできなかったはずである。
 朝鮮の米国軍隊は、侵略が起こった当時は、ごく少数の警察力だけしか持っていなかった。ソ連との協定に基づいて、アメリカ政府は38度の緯度線のところまで朝鮮を占領する権限を持っていた。しかし、ワシントンでは節約の波が高まっていて、米国軍隊を南朝鮮から撤収させれば数百万ドルの金が助かると計算していたのだった。その上さらに戦後の急速な除隊がもとで、われわれの軍事力は単に極東だけではなく、世界の全域にわたってほとんど皆無にひとしいくらい減少してしまっていた。1950年6月には米国陸軍は、アラスカの滑走路を維持するためだけの兵員さえも持ち合わせていなかった。いわんやヨーロッパの非常事態に備えず二個師固または二個師団以上の兵力を提供する能力などは論外であった。
 日本人は、われわれを助けるために兵隊を補給するよう要求されもしなかったし、そんなことは許されもしなかった。けれども日本人の船舶と鉄道の専門家たちは、彼ら自身の熟練した部下とともに朝鮮へ行って、アメリカならびに国連の司令部のもとで働いた。これは極秘のことだった。しかし、連合国軍隊は、この朝鮮をよく知っている日本人専門家たち数千名の援助がなかったならば、朝鮮に残留するのにとても困難な目にあったことであろう。(『軍人のなかの外交官』古垣鐵郎訳 442頁)

130 稀有書6  ナチス狂気の内幕

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英訳『第三帝国の内幕』表紙

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英訳『シュパンダウ日記』表紙

 アルベルト・シュペーア(1905 - 1981)は、ヒトラーに信頼された建築家で、ナチスドイツの主任建築家として、ヒトラーやゲーリングなどの住居の設計から党大会会場、競技場施設などの設計を行った。1942年からは軍需大臣を務めた。彼は1946年のニュルンベルク裁判で懲役20年の判決を受けた。1966年10月釈放、4年後の1970年、回顧録『第三帝国の内幕』(日本語版『ナチス狂気の内幕』)を出版した。この本は、彼が収容されていたシュパンダウ刑務所内での原稿をまとめたもの。
 また彼は同時に日記を書いており、これも『シュパンダウ日記』として1975年に出版された。
●彼のヒトラー批判
 ヒトラーが戦争中にしばしば「より大きな失敗をするほうが戦争に負けるんだ」と述べているのが、今日興味深く思える。ヒトラー自身のあらゆる領域での決断の誤りは、生産能力の喪失によってどっちみち敗北する戦争の結果を早めることに貢献しただけだった。たとえば、イギリスに対する彼の錯乱した空中戦計画、戦争開始時の潜水艦の不足、特に全体的戦争計画を立てることに対する彼の怠慢等である。実際、ヒトラーの決定的な過ちを指摘しているドイツの各種の記録文書の記述はほぼ正しい。しかし、それもこの戦争に勝つことができたかもしれない、という意味ではないのだ。(『ナチス狂気の内幕』16章 品田豊治訳 読売新聞社1970年)

129 稀有書5 ゲーレン回顧録

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ラインハルト・ゲーレン回顧録(1972年英訳版)

●ゲーレンのヒトラー批判
 西ドイツの情報機関である連邦情報局(BND)の初代長官ラインハルト・ゲーレン(1902 - 1979)の回顧録。
 彼は第二次世界大戦中の1942年、東方外国軍課に異動。ゲーレンは対ソ諜報網を立ち上げ、ドイツの諜報活動の中心人物の一人となった。
1945年春、ドイツ国境に迫るソ連軍の戦力の優勢の報告がヒトラーを怒らせ、解任される。
 彼はドイツが降伏した2週間後に、ソ連軍事情報をもってアメリカ軍に投降し、ソ連の共産思想の脅威を訴えた。アメリカはソ連を連合国として評価しており、ソ連の情報の価値を評価しなかったが、米軍情報機関がその価値を認識して彼を中心とする、対ソ諜報組織「ゲーレン機関」を設立した。このあたりのいきさつも「回顧録」に詳しい。
 本書の中でゲーレンは、両軍の軍事情報を分析して、ヒトラーの非現実的な戦略を徹底的に批判し、ドイツ参謀本部の作戦通りに進めたらソ連攻略に成功していたと言っている。また連合軍も戦争勃発時に、政治的・軍事的行動をしていたら短期間のうちにドイツは敗北していたとも述べている。(資料「諜報・工作 ラインハルト・ゲーレン回顧録」赤羽達夫監訳 読売新聞社1973年発行)