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131 稀有書7 軍人のなかの外交官

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米外交官ロバート・マ−フィ(1894 - 1978)

 外交官ロバート・マ−フィの書『軍人のなかの外交官』(鹿島研究所出版会 1964)のなかで、第一次大戦のベルリン大使館時代から、1958年のレバノン出動までの政治状況を、自分の目で的確に報告している。
 また彼はヒトラー、ドゴール、昭和天皇、吉田茂、蒋介石などと直接対話して、その印象を記述しているのも参考となる。その際、彼は人を批判しない点が美徳であるが、それも外交官ならではの技術だろうか?
 いくつも有益な記事があるが、ここでは彼が駐日大使時代の、朝鮮戦争と日本の対応について触れているカ所を抜粋する。
●朝鮮戦争(1950-53)
 朝鮮戦争が起こったのは、日本人にとってまるで、思いがけない幸いであった。というのは、お蔭で彼らはアメリカその他の国連軍が必要とした補給物資や役務を供給するために、彼らの粉々にこわれていた産業を最大速度で再建することができたからである。韓国が1950年6月25日に、ソ連製の戦車百台を先鋒とする6万の北朝鮮兵士によって侵略された時、マッカーサーは当時日本に駐留していた戦闘態勢の軍隊で使えるものはすべてこれを前線に送り出した。
 元帥は日本政府が安全で秩序整然たる基地を提供してくれるものと確信していた。それに日本人は、驚くべき速さで、彼らの四つの島を一つの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、朝鮮戦争は
戦うことはできなかったはずである。
 朝鮮の米国軍隊は、侵略が起こった当時は、ごく少数の警察力だけしか持っていなかった。ソ連との協定に基づいて、アメリカ政府は38度の緯度線のところまで朝鮮を占領する権限を持っていた。しかし、ワシントンでは節約の波が高まっていて、米国軍隊を南朝鮮から撤収させれば数百万ドルの金が助かると計算していたのだった。その上さらに戦後の急速な除隊がもとで、われわれの軍事力は単に極東だけではなく、世界の全域にわたってほとんど皆無にひとしいくらい減少してしまっていた。1950年6月には米国陸軍は、アラスカの滑走路を維持するためだけの兵員さえも持ち合わせていなかった。いわんやヨーロッパの非常事態に備えず二個師固または二個師団以上の兵力を提供する能力などは論外であった。
 日本人は、われわれを助けるために兵隊を補給するよう要求されもしなかったし、そんなことは許されもしなかった。けれども日本人の船舶と鉄道の専門家たちは、彼ら自身の熟練した部下とともに朝鮮へ行って、アメリカならびに国連の司令部のもとで働いた。これは極秘のことだった。しかし、連合国軍隊は、この朝鮮をよく知っている日本人専門家たち数千名の援助がなかったならば、朝鮮に残留するのにとても困難な目にあったことであろう。(『軍人のなかの外交官』古垣鐵郎訳 442頁)