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211 稀有書 87 ポンペイの剣闘士

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剣闘士と司式者

 イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市ポンペイ。西暦79年、ヴェスヴィオ火山噴火によって地中に埋もれた。爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ市民の別荘も多くあり、また彼ら向けの施設も多くあった。発掘された遺跡から、円形闘技場や剣闘士養成所、防具の出土品が見つかっている。
●グラディエーターの起源
 血まみれの娯楽の起源は、戦いの後、殺害された首長に敬意を表して、捕虜を犠牲にするのが通例であった。やがて高位の階級の人の葬式で、奴隷を犠牲にすることが通常になった。その後、観客の娯楽のために、無防備な男性を虐殺するのは野蛮に見えたため、彼らの手に武器が許され、彼らと戦う人を殺すことで自分の命を救うよう促された。
 最初、これらのスポーツは、故人の葬儀の地、または彼の墓の近くで実行された。しかし、彼らがより洗練され、葬儀に流用されなくなったため、活躍の場はフォーラムに移され、その後サーカスや円形劇場に移された。
●歴史に残る戦い
 剣闘士は、紀元前264年にブルータスの父親の死の際に、最初に行われた。この戦いは3組のみで構成されていた。紀元前174年のティトス・フラミニヌスが主催した74人の剣闘士による闘技は注目を集めた。それ以降、追悼闘技会が広まるとともに、生贄を求める農神サトゥルナリアの祭に行われる傾向があった。
 紀元前2世紀には円形闘技場が建設され、都市ローマでの闘技会は主にフォルム・ローマーヌムで行われるようになった。したがって、これらのショーの数と頻度は増加し、金持ちや著名人の葬儀だけでなく、その満足度を求めて彼らの好みが強まった。
 西歴59年、ポンペイの円形闘技場でポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間ポンペイ市民は闘技会での開催を禁止されている。
 トラヤヌス帝(在位98 - 117)は1万人の剣闘士を集めた闘技会を開催し、コンモドゥス帝(在位180- 192)は自らが剣闘士になって戦っている。ローマ帝国全体では186カ所の円形闘技場があり、未確認のものが86カ所あったという。この慣習はセオドリック( 493ー518) によって完全に廃止されたのは西暦500年になってからである。
 出典 Pompeii by Clarke, G.j library of entertaining knowledge (1836). ウィキペディアも参照。