シュールの効用

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212 稀有書 88 ヴェスヴィオ山の噴火

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ヴェスヴィオ噴火(1967 下記文献より)

 「ヴェスヴィオ山、エトナ山、その他の火山の観測」という書物がある。これは、W・ハミルトン卿から王立学会に追加された一連の報告の手紙をまとめたものである。
 イタリア・カンパニア州にあるヴェスヴィオ山で発生した噴火は何度も発生している。特に有名なのは紀元79年8月24日に起ったもので、このときはポンペイの都を埋没させたことで有名である。ヴェスヴィオ山はこの噴火以降、472年、1139年、1631年にも大噴火を起こし、多数の犠牲者を出している。本書は1767年から68年にかけて発生した噴火の模様を記録したものである。
●ハミルトン卿の報告
 1767年12月29日ウィリアム・ハミルトン卿(1730 -1803)がナポリから送った報告によると、
「 1767年10月19日に始まった後期の激しい噴火は、ティトゥスの時代にヘルクラネウムとポンペイを破壊ししたそれ以来27番目であると考えられております。
1766年の噴火は、12月の噴火まで続き、全部で約9か月続いた。それでも、その期間に、山は溶岩の量の3分の1を放出せず、この最後の噴火の期間の7日間で溶岩を噴出しました。」とある。
(文献) OBSERVATIONS ON MOUNT VESUVIUS, MOUNT ETNA, AND OTHER VOLCANOS: IN A SERIES OF LETTERS, Addressed to The Royal Society, From the Honourable Sir W. Hamilton.London (1774).

211 稀有書 87 ポンペイの剣闘士

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剣闘士と司式者

 イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市ポンペイ。西暦79年、ヴェスヴィオ火山噴火によって地中に埋もれた。爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ市民の別荘も多くあり、また彼ら向けの施設も多くあった。発掘された遺跡から、円形闘技場や剣闘士養成所、防具の出土品が見つかっている。
●グラディエーターの起源
 血まみれの娯楽の起源は、戦いの後、殺害された首長に敬意を表して、捕虜を犠牲にするのが通例であった。やがて高位の階級の人の葬式で、奴隷を犠牲にすることが通常になった。その後、観客の娯楽のために、無防備な男性を虐殺するのは野蛮に見えたため、彼らの手に武器が許され、彼らと戦う人を殺すことで自分の命を救うよう促された。
 最初、これらのスポーツは、故人の葬儀の地、または彼の墓の近くで実行された。しかし、彼らがより洗練され、葬儀に流用されなくなったため、活躍の場はフォーラムに移され、その後サーカスや円形劇場に移された。
●歴史に残る戦い
 剣闘士は、紀元前264年にブルータスの父親の死の際に、最初に行われた。この戦いは3組のみで構成されていた。紀元前174年のティトス・フラミニヌスが主催した74人の剣闘士による闘技は注目を集めた。それ以降、追悼闘技会が広まるとともに、生贄を求める農神サトゥルナリアの祭に行われる傾向があった。
 紀元前2世紀には円形闘技場が建設され、都市ローマでの闘技会は主にフォルム・ローマーヌムで行われるようになった。したがって、これらのショーの数と頻度は増加し、金持ちや著名人の葬儀だけでなく、その満足度を求めて彼らの好みが強まった。
 西歴59年、ポンペイの円形闘技場でポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間ポンペイ市民は闘技会での開催を禁止されている。
 トラヤヌス帝(在位98 - 117)は1万人の剣闘士を集めた闘技会を開催し、コンモドゥス帝(在位180- 192)は自らが剣闘士になって戦っている。ローマ帝国全体では186カ所の円形闘技場があり、未確認のものが86カ所あったという。この慣習はセオドリック( 493ー518) によって完全に廃止されたのは西暦500年になってからである。
 出典 Pompeii by Clarke, G.j library of entertaining knowledge (1836). ウィキペディアも参照。

210 稀有書 86 ボッティチェッリの「神曲」のイラスト

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「地獄篇」10章の挿絵

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「地獄篇」18章の挿絵

 ダンテ(1265-1321)の「神曲」の原稿は、1485年から1495年にかけてボッティチェッリ(1445-1510)が描いた92枚の絵で装飾された。テキスト部分と、シーンを描いたイラストとの緊密なつながりが特徴。
 ボッティチェッリは、1490年頃、ロレンツォ・クリ・ピエールフランチェスコ・デ・メディチ(1463〜1503)の要請により、ダンテの神曲のイラストを描き始めた。
ボッティチェッリが描いたダンテの神曲の図版はやがて姿を消し、19世紀まで完全に忘れられていた。 これを最初に注目したのはドイツの芸術史家G.F.ワーゲンで、 彼はスコットランドのハミルトン宮殿で、ハミルトン公爵のコレクションの一つを見て、ボッティチェッリの作品として認識した。 彼はヴァザーリから引用した一節を思い出し、神曲のイラストは、これまでに描かれた最高の作品であると述べた。
 ボッティチェッリは、ダンテの詩に徹底的に読み込み、1481年から1503年の間に羊皮紙にいくつかの非常に詳細なイラストを作成した。
しかし、なんらかの理由で図は未完成だったが、生き残った93枚のシートのうち4枚だけが着色されていた。図面は現在、ベルリンの美術館とバチカン図書館のコレクションにある。
 「ダンテの神曲のためのサンドロ・ボッティチェッリによる図版」(1896)には、神曲の物語とそれを説明する全図版が紹介されている。
   資料 DRAWINGS BY SANDRO BOTTICELLI FOR DANTE'S DIVINA COMMEDIA BY F. LIPPMANN,LONDON.(1896). travelingintuscany.com

209 稀有書 85 ロンドンタワーのデザイン募集

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1位に入賞のロンドンタワー

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2位に入賞のロンドンタワー

 パリで最も興味深いエッフェル塔は、著名なフランス人のギュスターヴ・エッフェルによって設計され、1889年のフランス博覧会で最も注目すべき特徴を顕示した。この塔の建設には、特別に設計された1万2,000個の部品からなる7,500トンの鋼と鉄が使用された。
●ロンドンタワーのデザイン募集
 このエッフェル塔の絶大な人気と、その事業に関心のある人々に与えられる金銭的利益を考慮して、ロンドンに大きな塔を建てるプロジェクトがすぐに多くの資本家から積極的な支持が出た。
 手始めに会社が設立され、デザインを募集するコンテストが持ち上がった。2つの賞が用意され、一位は500ギニア、2位は250ギニアである。
 この結果、68点のデザインと提案が全世界から寄せられ、ロンドンのADスチュワート、JMマクラーレンなどに1位が授与された。2位はリバプールのJ.J. ウェブスター他で、250ギニーが授与された。
 どちらの賞のデザインも、八角形の鉄骨構造で、最初のデザインは1,200フィート。第2の建物の高さは1,300フィート。
 機能として、エッフェル塔よりも広々としていて標高が高く、さらに多くの人々を収容できるようになっている。レストラン、劇場、ショップ、トルコ風呂など、娯楽を求める人のための特別な施設が提供されるというが、どうやら実現された様子はない。
 資料 フレッド・リンド著『ロンドンのグレート・タワー/デザインカタログ』(1890) Illustrated Catalogue OF THE SIXTY-EIGHT COMPETITIVE DESIGNS FOR THE GREAT TOWER FOR LONDON,Fred. C. Lynde,London.1890.

208 稀有書 84 ナチスを支えた女性たち

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マーチン・ファン・クレフェルト著「特権の性」表紙

 兵站学の名著『補給戦』の作者マーチン・​ファン・クレフェルト(1946~)には、反フェミニスト論である「特権の性」The Privileged Sex(2013)がある。本書は、女性が受けている社会的な抑圧というものは、大部分がデータの裏付けのない神話で、女性は社会的保護と特権を享受する傾向があると主張している。以下の記述はその一章、ナチスドイツ下での、女性の社会的活動を示した部分である。
●ナチスの女性対応
 作者は、ナチスドイツにおける女性の本当の立場は何かに答えるには、ヒトラーが権力を握る前に、ドイツのフェミニズムを見ることが最善という。当時活動していた女性組織は、女性の平等な権利を支持する人もいた。しかし時がたつにつれて、女性に平等な権利を要求する社会主義的でリベラルな女性の運動は権力と支持者を失い、母性を促進する運動が支持を伸ばした。ワイマール共和国の最後の年までに、「フェミニスト」というスローガン自体が、多くの女性にとって嫌悪の対象になった。
 多くの異なるグループの緩い連合であるドイツ女性協会(BDF)のトップは、女性の権利のためのベテラン運動家であるゲルトルート・ボウマーだった。
 1914年以前、彼女は中絶と避妊の両方に反対していた。 BDFが言いたいことの多くは、ヒトラーとの反響を見つけた。ナチスの目的は、ユダヤ人、モダニスト、国際主義者、その他のドイツの敵によって女性が堕落するのを防ぐことだった。健康的な価値観が見直され、女性は主に彼女らが帝国に与えた子供の数によって判断される。女子教育の目的は、「母性に備える」ことになる。
 人は世界、社会に運命づけられ、女性は夫、彼女の家族、彼女の子供たち、そして彼女の家に運命づけられていた。当時のほとんどの人と同じように、ヒトラーは子供がいない女性は、しまいには精神障害になると信じていた。
●女性たちのナチ崇拝
 社会におけるドイツ女性の地位は、ナチスの見解によって、どのくらい下がったかの答えは、反対にますます良くなっていった。党は当初から女性を引き付けることに成功した。ほとんどは、燃えるような若いリーダーが好きな婦人たちだった。その一人、フォン・レヴェントロフ伯爵夫人は、ヒトラーを「来るべきメシア」と呼んだ。
他の人は彼に高価なプレゼントを与えたり、卍旗の最初の実験計画を作成したりした。
 別の女性は、ナチスの新聞に資金を調達した。他の女性はヒトラーのプッチに資金を提供し、それが失敗した後、ヒトラーが自殺するのを防ぎ、ドイツのために生きる義務について彼に講義したのは、友人の妻だった。刑務所での13か月の間に、彼に多くの女性が訪問した。
 ヒトラーが「我が闘争」で書いたように、この困難な時期にナチ党が崩壊するのを防いだのは女性だった。
●ナチスの宣伝活動
 ナチスは、実際の暴力の他、「大衆の征服」によって権力を掌握しようとした。 その結果、ナチスの女性は、当時の他のほとんどの社会よりも、伝統的な女性の役割に縛られていなかった。彼女らは行進し、会議を開き、資金を調達し、宣伝を配布した。 他の人々は、「突撃隊」の男性のためにユニフォームを縫い、傷口に包帯を巻いて、彼らのために炊き出しをした。 1930年の決定的な選挙では、ナチスの有権者の45%が女性だった。その後、投票パターンはさらに顕著になった。
ナチス集会の監視者は、女性が常に最前列を占めていた方法に注目した。ヒトラー自身の基本的な信念は、女性は知性ではなく感情に支配されており、強者に最大の称賛を与えているというものだった。そして彼は彼女らと話す方法を正確に知っていた。 そして彼女らは、しばしば手に負えないほど泣きながら、誰よりも大声で彼を応援した。
●熱狂的なファン
 どちらかといえば、ヒトラーへの女性の崇拝は1933年以降に激化した。彼がどこへ行っても彼に続く群衆は、部分的に女性で構成されていた。
 他の女性は、ナチス式敬礼をするため、または彼が子供たちに触れるのを期待してベルヒテスガーデンへの巡礼をした。彼の誕生日には、女性は彼に何エーカーものスカーフ、枕カバー、毛布を送っていた。これらはすべて、あらゆるサイズ、色、種類の卍で刺されていた。
 次に、ヒトラーは彼女らを幻滅させないように注意した。彼が独身のままで、彼が愛人を持っていたという事実を秘密にしたのは彼女らのためだった。ドイツの女性と彼らの総統の間の恋愛を妨げるものは何も許されなかった。そしてそれはヒトラーと第三帝国が崩壊するまで続いた。
 ナチスが権力を握った後、女性組織は彼らの数が急増した。1933年だけでも、80万人の新しいメンバーが全国社会主義女性協会(NSF)に加わった。女子リーグの会員数は最終的に350万人に達したのである。
 出典 Martin Van Creveld, The Privileged Sex, DLVC Enterprises (2013)

207 稀有書 83クレオパトラ七世

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フランス版『クレオパトラ』(1964) 表紙

 『クレオパトラ』(1964)の作者のブノワ=メシャン(1901-1983)は、1947年に戦犯として死刑を宣告されたが、赦免され、歴史研究に専念する。作品に『アラビアのロレンス』、『オリエントの嵐』など多数。訳はナポレオン研究家の両角良彦(もろずみ1919 - 2017)。
●クレオパトラ
 クレオパトラ( BC69 - BC30)は、シーザーとエジプトとの間の媒介者だっただけではない。シーザーが築こうとしているローマ帝国と、彼女が後継者をもって自負しているアレキサンダー帝国との媒介者でもあった。(123p)
● クレオパトラの終焉
 シーザーがアレキサンドリアへやって来て出会った折のクレオパトラは、才たけた、いたずらな、よく笑う小娘だった。アントニウスが相手にしたのは、経験豊かな、女盛りの女王だった。だが、オクタヴィアヌスーわずか33歳であるーにとっては、彼女はとうの立った、魅力も涸れた一個の女性であって、反撥と侮蔑しか覚えない。女王の哀願にあっても、返事はありきたりの二、三の言葉を連ねるだけである。もし内心の本音をあかすなら、いくら呻かれても、泣かれても、どうしょうもないと言ってやるところだ。
 女王とシーザーの関係にしても、どうという関心はない。オクタヴィアヌスとしては、ずっと前から女王の裁きはつけており、またエジプトに関しても、すでに決断を下している。俺の愛するものは、人間の顔はしていない。ローマであり、国家であり、その故にこそ勝利を収め得たのだ。
●死を覚悟
 オクタヴィアヌスが立ち去ると、クレオパトラはついに勝負に敗れ去ったことを悟る。勝者の自分への反感は、どうやっても拭い去る術はない。あの男の戦車につながれ、カピトールの丘に引きずられてゆくだろう。凱旋行進のさらし者となり、鎖につながれ、群衆の嘲笑を浴び、唾をははきかけられるのが落ちだろう。考えるだに、怖ろしさに身がすくむ。いやだ、そういう見世物には金輪際なってやるまい。 お付きの者に、毒蛇を一匹仕入れるように命じる。深夜、一人の奴隷がひそかに霊廟に招じ入れられる。男はイチジクの籠にかくして、黒い小蛇を持ちこむ。大きさは指ぐらいしかないが、これに咬まれたら命はない。(333p)
 エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオン(BC47 - BC30)を呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。
出典 ブノワ=メシャン『クレオパトラ』両角良彦訳 みすず書房 1979

206 稀有書 82 ローマ人盛衰盛衰原因論

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モンテスキュー(1689 - 1755)

 フランスの哲学者モンテスキューは、『法の精神』(1748)で、その博学とその分類能力の技倆を示した。彼が1734年に書いた『ローマ人盛衰原因論』は、読みやすいうえ、その表現の簡潔さにも注目すべきものがある。以下はその一例。
□どうしてローマ人は栄えることができたか
 不断の経験のおかげで欧洲では百万人の臣民をもつ君主でも、一万以上の軍勢をもっていようとすれば必ずその身を滅ぼすことが分っていた。だから軍隊をもっている大きな国々以外には国がないわけである。
 古代の国々ではそれとは違ってはいた。というのは、兵隊とその残りの人民との比率を現代では100対1にするのが精いっぱいだが、古代では楽に8対1くらいにすることができたからである。
●占領地の分配
 古代諸国家の建国者たちは、土地を平等に分配した。そうしてこそ始めて人民の力は強化された。すなわち、秩序立った1つの社会ができたのだし、またそうしてこそ、各人は均しなみに頗る大きな利害刷係をもつため、その祖国をよく防衛する軍隊ができたのである。
●人口のもつ力
 国王追放後に行はれたローマの人口調査や 、アテナイで行ったそれによると、双方とも殆んど同じ住民数を示していた。ローマには44万、アテナイには43万1千の住民がいた。しかしローマの人口数はその制度が完備したときに低減しており、アテナイのそれはこの都が全く衰えてしまったときに減っている。丁年に達した市民の数は、ローマではその住民の4分の1を占め、アテナイでは20分の1より稍々少い数だったことが分った。
 そこでローマの闘力はアテナイのそれに比べ、さまざまな時期を通じて、ほぼ4分の1に対する20分の1、すなはち5倍だけ大きかったわけである。(24p)
 出典 モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』大岩誠訳 岩波書店 1941年