シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

106  鴨緑江断橋

鴨緑江断橋(おうりょっこうだんきょう)は、1909年に中国と北朝鮮国境の鴨緑江に、日本総督府鉄道局が建設した鉄道橋。全長944.2メートル、幅11メートル。
朝鮮戦争の1950年11月8日、この橋は米軍の爆撃によって破壊された。
 1993年に丹東市は橋の修復をし、同年6月に観光名所としてオープン、途中迄見学する事が出来る。この橋の上流の2番目の鉄道橋は、1943年に完成した鴨緑江第二橋梁(中朝友誼橋)。

 

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鴨緑江断橋(2018.5.14撮影)

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破壊された橋の部分(同上)

 

105 西太后が初めて車に乗った時

 北京の頤和園(いわえん)内の徳和園には、珍しい西太后(1835-1908)の車が展示されている。この車はアメリカのDuryea Motor Wagon Companyが製作したもので、軍人の袁世凱(えんせいがい)が西太后の信頼を得るためにアメリカから購入した。 1901年11月29日の西太后の66歳の誕生日の贈り物であった。
 車が紫禁城に届き、西太后がドイツ人の運転手が運転するのを見たとき、西太后はその運転手に尋ねた「この車はとても速く走るので、たくさんの草が必要ですよね?」この清王朝の支配者の質問は記録された 。
 西太后は、車で夏の宮殿に車で行くつもりだったが、車に乗ったとき、彼女は非常に怒っていた。それは運転手がひざまずかずに、西太后の前に座って運転することが容認できなかったためで、結局車は放棄された。(資料=每⽇頭條2020.12.22)

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徳和園にある西太后の車



104 ドイツ雑誌に紹介された旧日本軍

『デァ・アードラー』 (Der Adler) は、ナチス・ドイツ空軍の宣伝誌である。第二次大戦前に、ドイツ航空省が空軍の宣伝用に発行した。同誌はベルリンに編集部があり、大戦後はドイツ語版と英語版に分けられた。雑誌は1945年2月まで発行。1939.8.8号には「日本軍の組織と構造」の特集があり、以下は表紙と記事の一部である。

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ドイツ雑誌「アドラー(鷲)」に紹介された旧日本軍(1939.8.8号表紙)

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「戦隊は発表された敵の進路を封鎖する準備をしている。ここで行われる平和的な作戦は、中国軍との数多くの戦いで証明されるはずである」(同雑誌より)

 

103 売春防止法への歴史

・1872 (明治5年)10月2日「芸娼妓解放令」が、太政官から公布される。
・1875 (明治8年)4月4日「淫売取締令」が、東京府知事から出る。第一條「淫売女の所業致す者は娼妓鑑札(かんさつ)を受けた上、吉原根津その他四宿(品川、新宿、千住、板橋)貸座敷渡世(とせい)の者へ相預け、取締り致すべき事」とある。
・1885 (明治18年)8月14日の遊郭統計(『時事新報』より)
吉原=貸座敷(85カ所)、娼妓(1424人)、引出茶屋(157)、藝妓(158人)
根津=貸座敷(106カ所)、娼妓(943人)、引出茶屋(45)、藝妓(38人)以下四宿略。
・1900 (明治33年)10月2日に、「娼妓(しょうぎ)取締規則」(許可売春制度)が発布される。
この規則は、満18歳以上の女性で、娼妓所在地の所轄(しょかつ)警察署に備える娼妓名簿に登録するもの。
・1946(昭和21年)連合国軍最高司令官は、「娼妓取締規則」(1900年発布)を廃止した。
・1956(昭和31年)5月24日に、議会は「売春防止法」を可決し、1958(昭和33)年4月から施行された。

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横浜にあった外人用遊郭「Nectarine」1885年?
(vintage news daily 2017.11.21より)

 

102 コルテス流戦法

 アステカ帝国を征服したコルテス(1485-1547)は、1511年にベラスケス率いるキューバ征服に参加し、戦いに勝った。1519年、コルテスは500人の兵を従え、キューバから船でメキシコ湾岸沿いに進み、原住民との戦いに勝利する。
 さらにメキシコ高原に到達すると、アステカ国の宿敵であるトラスカラ国と戦って勝利し、同盟軍に加えてアステカへと向かった。10月16日アステカ帝国の衛星都市チョルーラに到着。チョルーラの指導者は彼らを歓迎したが、スペイン兵たちは無抵抗の住民を殺戮し、3000人以上が犠牲になった。
 しかしアステカ帝国が思いのほか強いので、コルテスは再征服の軍備を整えた。1521年の始め、5万余のスペイン兵連合軍がアステカに侵入し、4月28日には首都テノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末テノチティトランは陥落し、新王のクアウテモックは捕らえられた。1525年2月26日クアウテモックは絞首刑となり、アステカは滅亡し、メキシコはスペインに併合された。

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フェリックス・パーラ作「チョルーラの虐殺」(1877年)

 

101 詩人ランボーを射った拳銃

フランスの詩人アルチュール・ランボー(1854 - 1891)を負傷させた短銃が、2016年11月30日、パリのオークションで43万4500ユーロ(約5260万円)で落札された。この銃は、仏詩人ポール・ベルレーヌ(1844 - 1896)がランボーとの2年にわたる愛人関係に終止符を打つために購入したもの。
 1873年7月10日、ブリュッセルのホテルで、ランボーとベルレーヌが言い争い、ベルレーヌはランボーに向けて2回発砲し、1発がランボーの手首に当たった。この事件でベルレーヌは刑務所に2年間、収監された。事件後、ランボーはフランス北部の故郷シャルルビルに戻り、代表作『地獄の季節』を完成させた。ランボーは詩作をやめた後、アフリカで武器商人になるなどの職業をした後、マルセイユで病死した。37歳。(資料 BBC 2016.12.1)

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ベルレーヌがランボーを撃つた銃

 

100 トロッキーの死

    レフ・トロツキー(1879-1940)は、1917年のロシア十月革命における指導者の1人で、レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。1924年のレーニンの死後、トロツキーは中央委員会の多数派と対立。1927年には政府・党の全役職を解任され、1929年にはソビエト連邦から国外追放される。
  1936年、ソ連の圧力でノルウェーから国外退去を命じられたトロツキーは、メキシコに居を移した。1940年8月20日、ソ連内務人民委員部の部員ラモン・メルカデル(1914 - 1978)によって、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡した。彼の妻は、彼が攻撃された瞬間から彼が死ぬまで決して彼の側を離れなかった。(IN THE CROSSHAIRS by Stephen J. Spignesi 2003 )

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レフ・トロツキーと妻ナタリー・セドフ(1937)(elconfidencial.com 2020.8.20)