シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

99 レーニン暗殺未遂

ロシアの革命家ウラジミル・レーニン(1870-1924)は、ロシア革命を成功させる主導的な役割を果たした。その彼は、1918年の1月と8月の2度、暗殺未遂に遭遇している。以下は2度目の暗殺事件。

●暗殺者ファーニャ・カプラン(1883- 1918 )
決行日時=1918年8月30日(金)午後7時30分
決行場所=モスクワのマイケルソン工場 武器=ブラウニング拳銃
●暗殺の状況=レーニンが演説を終えて工場を出て車に戻ると、待ち伏せしていたカプランは彼に声をかけ、振り向いた所を拳銃で3発発砲した。1発は彼のコートを通り抜け、次の2発は命中した。1発は左肩に、2つ目は左肺の上部に穴をあけ、鎖骨の左側近くで留まった。両方の弾丸は動脈をはずしたが、2発目の弾丸は1ミリでもそれていれば即死していた。 レーニンは車に乗せられクレムリンに戻った。到着したが、出血が激しく痛みもともなった。 それでも、彼は運転手が彼を2階に運ぶのを拒否し、自力で2階まで歩いた。 信じられないことに、多量の失血、穴のあいた肺と壊れた肩であったが、レーニンは手術なしで一人で回復した。事件から4年後、彼は体内の弾丸の鉛中毒に起因するに卒中に襲われ、身体を動かすのが不自由になった。1924年1月、脳卒中により53才の人生を終えた。
(出典 Stephen J. Spignesi編「IN THE CROSSHAIRS」 2003)

f:id:danbuer:20201218162646j:plain

レーニン暗殺未遂の瞬間(ozgurdenizli.com2018.9.29)

 

98 アメリカのモンタナ州の銃の所有率は66.3%

 米国では、銃の所有に対する価値観が3つに分かれているという。1つは成人の30%弱が銃を所有していること。3分の1強が将来所有する可能性があると述べており、残りの3分の1は所有することを想像できないというもの。
2020年4月ランド社は、1980年から2016年までの50州すべてで、銃の所有状況を長期調査結果を発表した。調査は最低1丁所有する世帯の割合を示している。
 49位はマサチューセッツ州とニュージャージー州(14.7%)、47位がハワイ州(14.9%)、46位=ニューヨーク州(19.9%)、43位=カルフォルニア州(28.3%)、40位=フロリダ州(35.3%)、32位=バージニア州(44.6%)、12位=ケンタッキー州(54.6%)、1位=モンタナ州(66.3%)である。こうしてみると、州ごとに大きく異なることがわかる。(CBSニュース 2020.7.23)

f:id:danbuer:20201217152308j:plain

映画「007ドクター・ノオ」(1962)でショーン・コネリーが使用した拳銃ワルサーPPK.これはビバリーヒルズのオークション(2020.12.3)で、25万6千ドルで販売された。(ロイター12.4)

 

97 中国の第1迷宮

古代人が険しい崖の上に住居を造ることは、一般の人の思いもよらないが、古人はどんな方法で花崗岩の石の山を切り開くことができたのだろうか?
 これは千古の謎である。古崖居(ガイアジュ)遺跡は、北京で発見された最大の古代洞窟集落跡地で、延慶(ヤンチン)県西張山陵の西北の峡谷にあり、崖の花崗岩の石壁に117カ所の洞窟が発掘されている。そこは中国で発見された最大規模の崖居遺跡で、人々は「中国の第1迷宮」の古崖居と呼んでいる。時代は唐と五王朝の時代にさかのぼる。この遺跡は、2013年5月に北京の文化遺物保護ユニットとして発表された。

f:id:danbuer:20201217100847j:plain

古崖居(ガイアジュ)遺跡「浙江老年報」2009.7.22より

f:id:danbuer:20201217100922j:plain

古崖居(ガイアジュ)遺跡「墙根網」2016.1.20より

 

96 軍馬への追悼

ニューメキシコ州デミングの北西側にある第一次大戦の陸軍キャンプ「キャンプコーディ」で、約650人の兵士が集まって騎兵隊の馬の頭を形作った。これは第一次大戦で戦いそして死んだ多くの馬への、兵士からの賛辞を示したもの。馬は他の戦争でも活躍したが、第一次大戦で死んだ馬の数は膨大な数に及んだ。
 1914年から1917年の間に、米国から船で毎日約1000頭の馬が送られた。馬はドイツ海軍の攻撃の絶え間ない標的となり、途中で失われたものもあった。
米陸軍と英陸軍は騎馬歩兵を使用していたが、ドイツは戦争の早い段階で西部戦線への派遣を停止した。馬は食料や弾薬、医薬品を起伏の多い最前線に運ぶのを手伝ったが、機関銃と毒ガスで多くが殺された。(www.horsetalk.co.nz/2014/08/04)

f:id:danbuer:20201216180455j:plain

ブリューワー少佐が乗った馬の追悼 (米国議会図書館)

 

95 ベスビオ山は燃えている

1943年9月にサレルノに上陸した連合国軍により、1か月後、ナポリは連合国に降服した。ナポリ湾岸にあるベスビオ山は、何世紀にもわたって定期的に噴火し、断続的にその力を思い出させていた。
 第12空軍のB-25は、カッシーノのナチスドイツ軍を爆撃する途中、ベスビオ山を通過した。1944年3月の噴火により、上空で乱気流が発生し、下に被害が発生した。
 1944年3月21日「ベスビオ山はかつてないほど強くなっている」と、戦隊のメンバーは忠実に記録した。
「夕食時には爆風が絶え間なく鳴り響き、夕食の直後に山の頂上全体が落ちそうになり始めた…溶岩が私たちの側に降り始め、金属のような大きな熱いマグマが流れ落ちた。サンセバスティアヌスとマッサディソンマの町は、高さ50フィートの溶岩の流れに襲われ、その道のすべてをゆっくりと飲み込んでいった。 100フィート離れた木々は、拡大する樹液から突然膨らみ、破裂しすぐに火で焼かれた。」
資料 www.historynet.com/first-mount-vesuvius-then-the-nazis.htm

f:id:danbuer:20201216174407j:plain

1 ベスビオ山上空を飛ぶ米爆撃機ボーイングB52(1944)

f:id:danbuer:20201216174430j:plain

2 尾翼が焼け落ちたB-25 (国立公文書館)

94 ヨーロッパのイスラム教徒

 キリスト教に次ぐヨーロッパ第2の宗教のイスラム教徒は、2つのコミュニティが存在する。最初は、スペインまたはバルカン半島がイスラム帝国のときに、イスラム教に改宗した地元の人口によって表された。スペインは1492年のグラナダ陥落によってイスラム教徒が減少したが、バルカン諸国の一部では依然として強い(アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアなど)。西ヨーロッパでは、第二次大戦後にのみ、多くのイスラム教徒が現れたため状況は異なる。
 これは最近の現象で、これらのコミュニティの存在は世代ごとに大きく異なる。イスラム教の宗派に注目すると、すべての宗派がヨーロッパに存在する。ドイツ、フランス、ベネルクス、英国、トルコ、ボスニア、アルバニア、パキスタンには、地域的法慣行に寛大で、商業に理解を示す学派ハナフィー派が多い。
 この流れは、イスラム教徒の言語の理解が関係したヨーロッパへの目的地への流れであった。 インドのイスラム教徒は英国に向かい、北アフリカのイスラム教徒はフランスに、トルコのイスラム教徒はドイツに出発した。
 今日、イスラム教徒ははるかに幅広い国のグループから来ており、どこにでも行くので複雑となっている。2015年にシリア難民がヨーロッパに大量に流入したことで、ドイツ、スウェーデン、オーストリアの状況は、これらの国々が多数の難民を受け入れるにつれて変化した。出典:  Islamic Marketing by Cedomir Nestorovic (Springer 2016)

f:id:danbuer:20201214111837j:plain

図1 ギリシャ(オスマン帝国)アテネのバザール(19世紀初頭)(Wikipedia)

●ヨーロッパ諸国におけるイスラム教徒数と各国民全体の%。
フランス 470万  7.5%
ドイツ  411万 5.1%
イギリス 286万 4.6%
アメリカ   259万 0.8%
イタリア   158万 2.6%
スペイン   102万 2.3%
カナダ        94万 2.8%
オランダ     91万 5.5%
ベルギー     63万 6.1%
オーストラリア 39万 1.9%
ロシア 1637万 11.7%
(調査January 2011, Pew Research Center)

f:id:danbuer:20201214111918j:plain

図2 パリのグランド・モスケ(Wikipedia)

 

93 ナポレオンの葬列

ナポレオン(1769-1821)の葬列は2度あった。1度はセント・ヘレナ島での最初の葬式の時。2度目は遺骨がパリのパンテオンに納められたときである。 死亡 皇帝の死亡時刻の1821年5月5日夕方6時には、強い大嵐がセント・ヘレナ島を襲った。
葬儀 埋葬日は5月8日に決まった。正午頃、セント・ヘレナ知事は、他の役員とともにロングウッドに現れた。短い儀式のあと、擲弾兵が王室の喪の色である紫のビロードで包んだ棺をかついできた。そして4頭の馬に曳かれた霊柩車に乗せた。
資料 ヒューバート B.リチャードソン著「ナポレオンと同時代の辞典」(1920)

f:id:danbuer:20201212130634j:plain

図1 「ナポレオンの死」(1825) Charles Steuben画

f:id:danbuer:20201212130704j:plain

図2 「セントヘレナ島でのナポレオンの葬列」(1821) Johann Lorenz Rugendas(1775-1826)画

f:id:danbuer:20201212130732j:plain

図3 「フランスに返還されるナポレオンの遺骨」(1840.12)Jean-VictorAdam画 モスクワ、ボロディーノ美術館(図1,2,3 資料 雑誌「De tours en Histoire N 10 2015)

f:id:danbuer:20201212130755j:plain

図4 1861年に完成したアンヴァリッドのドームの下のナポレオンの墓(図資料 musee-armee.fr)