シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

213 稀有書 89 白バイの始まり

f:id:danbuer:20210713124148j:plain

インディアン・モトサイクル(1920年写真www.wikiwand.com)

 「警視庁史」(大正篇・警視庁史編さん委員会1960)という書物には、大正時代の警視庁が扱った事件や法律が収録されており、当時の世相を知るのには大変に貴重な資料となっている。このなかには、交通事故とそれに対応する警視庁の取り組みを扱う記事があった。以下は、本書から白バイの発足と自動車免許の始まりをまとめてみた。
●白バイの始まり
 警視庁でオートバイによる交通の指導取締りをはじめて実施したのは、大正7(1918)年1月1日であった。日本に自動車が登場したのは明治30(1897)年で、その後次第に増加し、大正6年ごろには1300余台に達したという。自動車の増加に伴い、交通事故も増え、同年の事故は死者51名、負傷者3647名だった。
このため警視庁では、オートバイによる取締方策を決定。大正6(1917)年9月27日の警務通達第30号で、「自動車取締専務巡査勤務に関する件」を示達、まず取締専務巡査6名を選抜して取締りに専従させた。
 発足当時使用したオートバイは6台(インデアン5台、ライテングカー1台)で、これを麹町、愛宕及び上野の各警察署へそれぞれ1台あて配車、他の3台を予備車として本部で運用した。
 また取締りに使用したオートバイの車体を全部赤色に塗ったため、俗に「赤バイ」といわれ自動車運転者に恐れられた。この「赤バイ」は昭和11(1936)年に白色に塗りかえられ、こんどは「白バイ」と呼ばれて現在にいたっている。(682p)
●自動車運転手試験規則の制定
 大正13(1924)年7月24日、警視庁令第41号で「自動車運転手試験規則」が制定され、同年8月1日から施行された。自動車運転手の試験は、自動車の輸入とともに行なわれたようだが、規則が出来たのは、大正8年1月内務省令第1号の自動車取締令第15条に、
「運転手たらんとする者は主たる就業地の地方長官に願い出て、その免許を受くべし。免許を与えたるときは免許証を交付す。運転免許証は甲乙の2種とし、甲種免許証を有する運転手は、各種の自動車を運転することを得」(原文片仮名を平仮名に変更)と定められてからである。
 当時の試験は、試験場はなく、実地試験は日比谷附近の道路で、学科試験は本庁の廊下で行った。受験者は1日20人位で、うち合格者は5、6人程度という。その後、大正12(1923)年の大震災で、警視庁が焼失したたため、試験場がなく、赤坂紀尾井坂附近、芝公園内、代々木練兵場等で試験をやっていた。昭和4(1929)年8月に、洲崎に初めて自動車運転免許試験場ができたという。(709p)