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198 稀有書 74 平賀源内の「そしり草」

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源内画像(桂川甫周画)

 平賀源内(1728- 1780)は、江戸時代中頃の蘭学者、戯作者、発明家で知られる。1752年頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、家督を放棄する。
1756年に江戸に出て本草学者に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学で、鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。1776年に長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理復元する。1779年夏に橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、投獄され破傷風により獄死。享年52。

「そしり草」は彼の戯作で、(1)の守屋大連などの人物37人に仙人、
宗教者、論語読みを加えた40項まで、これまで聖人、英雄といわれた40人を、様々な理由をつけて誹謗中傷した洒落本である。以下はその5番目に登場する空海へのそしりである。

(五)弘法
 弘法大師、父は讃州多度郡の人、佐伯氏田公、母は阿刀氏、稚名貴物と云へり。出家して空海と號して、勤操僧正の弟子と成り、博學能書の譽有り。承和二年三月廿一日、高野山に入定して、弘法と諡(おくりな)を賜ひ、大師號を賜ふ。佛者の説に、龍樹菩薩の後身なりと云へり。去ばにや、空海と云ひし時入唐して、青龍寺の慧果(けいか)和尚に隨ひて法を極め、歸朝して本朝に弘めしは大功なり。然るに男色の戲れは、弘法唐土にて傳受して、日本に弘めしと云へり。
 貝原氏が「和事始」にも、此の戲れは弘法以來の事なりと見えたり。然らば空海は、少童の爲には非道を弘めし大極罪人にして、菩薩の後身には不埓(ふらち)なる僧なり。元來出家は女犯の禁戒あれば、世の譏(そし)りを恥ぢ人目を忍ぶといへども、男色は出家の犯すべきと云ふは、元來我儘(まま)勝手なり。小姓を抱へ野郎に戲れ、婬佚に溺るゝ事その罪深し。故に古人も、男色は陰陽の亂れたりと云へり。或は亂風と名け非道と呼ぶ、佛豈(あに)非道の邪淫を許し給はんや。
 男色も女色も淫欲の情に替る事なし、然れば破戒の罪は遁るべからず。女犯肉食は勿論、諸惡自ら生ずべし。去れば男色に惑溺し、身を亡し師を恥しめ、宗門を穢したる出家餘多有り。斯(かか)る非道を世に弘め、罪なき兒童を苦しめ、僧として惡道に陷る、弘法こそは實に非道の惡僧成るべし。去れども、破戒の比丘の爲には、莫大の功德にして、誠に菩薩の大慈悲ならん。(出典「平賀源内全集下巻」萩原星文館 1935年)