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114 徳川家康への書状

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長崎から安南に向かう船図

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阮潢(ルアン・ファン)から徳川家康への書状、弘定2年(1601)5月

2020年12月29日、厦門大学歴史学部の招きで、紅河大学ベトナム研究センターの叶少飞(イェ・シャオフェイ)准教授が、16世紀から17世紀のベトナムと日本の文書から見た、「王と東アジアの世界秩序」に関する学術講演を行なった。
16世紀、明王朝(1368-1644)主導の支流制度は引き続き機能したが、近隣の支流国の政治環境は大きな変化を遂げた。安南(ベトナム)では、莫(ばく)王朝(1527-1677)が1527年に設立されたが、黎(れい)王朝(1532-1789)はすぐに1533年に反撃を開始し、1592年に再建された。この時、明王朝は日本との貿易を禁止する方針を繰り返した。
日本は、明王朝の封鎖によって生じた貿易ギャップを埋めるため、安南の南阮と北郑のとの貿易協力を実施した。
しかし当時のベトナムと日本の古代文書における「安南の王」と「日本の王」という呼び方について疑問が生じている状況を説明している。(来源「澎湃新闻」(2021.1.10)