シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

219 稀有書 95 ビアズレーの「髪盗人」

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CANTO 1

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CANTO 2

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CANTO 3

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CANTO 5

●『髪盗人』(かみぬすびと、The Rape of the Lock)
 『髪盗人』は、イギリスの詩人アレキサンダー・ポープ(1688 - 1744)が書いた擬似英雄詩。ポープの友人達にまつわる実話に基づいて執筆された。社交界の花形アラベラの求婚者ペトレ卿が、戯れに彼女の髪の房を切り落とし、結果として生じた諍いが両家の対立を招いた。ポープは友人の依頼を受けこの詩を執筆。
 ポープは、アラベラを詩の中でベリンダとして登場させ、神話の世界での取るに足らない口論を描いて風刺した。
 令嬢ベリンダを守る風の精エアリエルは、ベリンダの星に動きに不吉な相を見て、夢の中で彼女に警告する。しかしベリンダは警告を忘れて川遊びに夢中になる。そこでベリンダの髪の房は切り取られ、彼女に思いを寄せる貴族の手に落ちる。
 この騒ぎを見た土の精は、人間界に争いを起こすチャンスと、地下に住む女王に報告。女王から不和の袋を授かると、その中身を人間界に撒き散らす。たちまち起こった諍いの中で、ベリンダの髪の房は天に上ってしまう。
●オーブリー・ビアズリー(1872 - 1898)
 ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する挿絵画家。ペン画で耽美な世界を描いたが、病弱で25歳で死去。
・資料 The Rape of the Lock WRITTEN BY ALEXANDER POPE NINE DRAWINGS BY AUBREY BEARDSLEY, LEONARD SMITH ERS (1896)

218 稀有書 94 ロートレックのポスター

    1891年-ロートレックの最初のポスターが登場。 パリの朝の霧の中で目覚めた通りの灰色の壁に、まだ接着剤で輝いているポスターの色がはじけた。
  好奇心旺盛な通行人は、その数が絶えず増え続けており、集まって、見て、驚いている。人は街中で、ロートレックの名前を声に出して読んだ。そしてこの名前は、多数配布されたポスターの下部に繰り返され、パリ全体で知られるようになる。
 ロートレックは少なくともその日、一般大衆は彼を知るようになった。(「トゥールーズ・ロートレックのポスター」エドワード・ジュリアン著)

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●「54人の乗客」(1896)

    サロン・デ・セント国際ポスター展示会
パリからボルドーに行くために、彼はライナーでルアーブルに乗り出し、実際のクルーズに参加した。 その間、彼はボルドーの港で、チリの船の甲板で未知の女性を見かけ、追いかけて出発した。

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●「ジプシー」(1900)

    アントワーヌ劇場 のポスター
 ジャン・リシュパンの戯曲による4幕のドラマ「ラ・ジタン(ジプシー)」の最初の公演は、1900年1月22日にテアトル・アントワーヌで行われた。

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●「ラレビュー・ブランシュ」(1895)

 このポスターに代表される美しいミシア、マダム・タディーナ・タンソン。彼女がピアノ演奏する美しい肖像画を、ロートレックは描いている(1897年)
 ・出典 LES AFFICHES DE Toulouse-Lautrec, EDOUARD JULIEN (発行年不明)

217 稀有書 93 ローマのオベリスク

 現在、世界にはエジプトから運ばれたオベリスクは30柱あり、その内の13柱がローマにある。

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 ●サン・ピエトロ広場
 サン・ピエトロ大聖堂の正面にある楕円形の広場。ベルニーニの設計により、1656-67年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ。

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 ●ラテラノ・オベリスク
 ラテラノ大聖堂のオベリスクは、高さ32.18m(底と十字架を合わせて45.70 mに達する)で、世界で2番目に高いモノリシックオベリスク。1588年に教皇シクストゥス5世の意志で、建築家ドメニコ・フォンターナによって、ラテラノ大聖堂の裏側に建てられた。

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 ●サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のオベリスク
 ローマのバシリカ様式の聖堂。世界中に聖母マリアにささげられた聖堂があるが、その中で最大のもの。
イラスト出典 ORNAMENTI DI FABRICHE ANTICHE ET MODERNE Dell' Alma Città di ROMA(1600年)

216 稀有書 92 弥勒(マイトレーヤ)の経典

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弥勒菩薩像(ガンダーラ3世紀 Metropolitan Museum of Art)

 「弥勒(みろく)菩薩は一般に兜率天(とそつてん)に住する当来仏と信じられているが、彼が作者とされる経典に「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」がある。この経典は、玄奘が最も読みたい経典といわれ、彼がそのためにインド迄取りに行ったものであり、玄奘自らがこれを完訳している。
 この経典を語ったのが弥勒菩薩であるとする伝説は、「後世に創造された神話で、決して歴史たるものでなく、その学説又は学派の起原を、神秘的に天上に押上げたことになるに外ならぬ」このように仏教学者宇井伯寿(1882-1963)は「印度哲学史」のなかで述べている。以下は宇井が伝説が普及して行く過程を述べている。
●弥勒菩薩と弥勒
 史的研究からは、どうしても弥勒菩薩と弥勒とを区別せねばならぬ。無着(310-390?)自身も弥勒から「瑜伽師地論」を聴いたといい、その弟で弟子の世親も、無着が弥勒から教えを受けたことをいうが、無着が兜率天に上ったとか、弥勒菩薩が降下したとかについては言及していない。作者の弥勒を史的人物と見れば、大体270~350年頃の人である。
●伝説のはじまり
 無着が上天して教えを受けたとか、菩薩が降下して教えたとか言うようになったのは、早くとも西暦450年頃から。これは弥勒の名と同じ弥勒論師への尊祟により、当来仏と同一視され、神話化されるに至ったとしている。(同書336p)
●ガンダーラの弥勒仏
 ガンダーラの仏教美術では、釈迦牟尼の仏と菩薩、それに弥勒菩薩が礼拝の対象として彫刻された。これらの図像は、すでに盛期クシャーン (150- 250年)のあいだに成立していた。この時期にクシャーン の支配を受けたインドのマトゥラーでも、ブッダの像があり、過去七仏、弥勒の列像があらわされている(1) とあるから、2世紀中頃迄に弥勒崇拝は始まっていたことがわかる。こうして崇拝の対象である弥勒菩薩と学者の弥勒が同名であったために、その著作も神格化されて菩薩の教えという経緯に至ったのであろう。
資料 1.宇井伯寿「印度哲学史」岩波書店 1932年
   2.小谷仲男「ガンダーラ仏教美術の展開」1967

215 稀有書 91 飛行船ヒンデンブルク号見学

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飛行船LZ129(写真deviantart.com)

 日本人新聞記者の大塚虎雄が、第2次大戦前夜のドイツを訪れ、その時の取材を『ナチ独逸を往く』(1936)に記録している。記事には、大空の豪華飛行船LZ129の設計者フーゴー・エッケナー博士(1868 – 1954)に面会して、インタビューした様子がある。
 訪れた先は、南ドイツのスイスとオーストリヤとの国境に挟まれたフリードリツヒスハーフエン。博士はツェッペリン伯の片腕として飛行船の設計にかかわり、伯の没後はその後継者となったのである。
 格納庫にある製造中の飛行船LZ129は、全長248メートル、直径41.2メートルという大きさ。定員50人の旅客の寝室、それを挟んだ両側に食堂と喫煙室、読書室、さらにその両側に展望窓をもった散歩道迄設置されている。完成後は、1936年の春には試験飛行をし、3月には南米航路に就航する予定と云う。
 問 飛行船による事業の企業的価値はありますか?
 答 ある、政府の補助金なしに採算可能だ。
 問 日満合弁の航空会社が出来て、東京と新京間に定期の無着陸航空路を開設するという話があったが、日本から購入の申し込みがあったら売りますか?
 答 よろこんで売ります、他の国ならいざ知らず、政府の方も異存はあるまい。値段は一隻650万マルクなおら売ってよい。
 問 LZ129号は軍事的には如何?
 答 純然たる民間の営利会社で軍部と関係はない。我々の飛行船は大空の豪華船であって、戦争には適しない。
●大火災
 LZ129号ヒンデンブルク号は、この本の出版の翌年の1937年5月6日アメリカのレイクハースト飛行場に着陸作業中、火災を起こし墜落。これにより、ツェッペリン飛行船の定期旅客航路の運航は中止。ツェッペリン社は惨事の数年後には活動を停止した。
  出典 大塚虎雄『ナチ独逸を往く』亜里書店(1936)

214 稀有書 90 地獄の鬼

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閻魔王の裁き「中国十八層地獄詳細図解」より

 『源氏物語』を最初に現代日本語に翻訳した吉澤義則著『国語説鈴』に、「地獄の鬼」の話がある。ここで彼が触れているのは、日本の説話の中で登場する鬼は多くが、死んで浮かばれない霊が悪さをするものが多いという(作者はその例をいくつかあげる)。しかし『日本霊異記』に登場する鬼は、いわゆる地獄に住む鬼が登場する。中国の怪奇説話には閻魔(えんま)と鬼の話が多くあるが、その種の話である。
 彼が『日本霊異記』のなかでも、中巻第25「閻羅王の使いの鬼が、召される者からご馳走をよばれ、御に報いた話」をとりあげたのは、やはり話が面白いからであろう。以下はその物語(文章は本文より)
●地獄からの使者
 それは聖武天皇(在位724~749)の御代の出来事である。讃岐国(香川県)山田郡に布敷臣(ぬのしきのおみ)衣女(きぬめ)という者がおった。病気危篤に陥ったので、門の左右に百味の飲食を設けて、疫神に御馳走して助かろうとした。然しそれはすでに手後れであった。鬼は閻魔王の命によって、衣女を迎うぺく門前にやって来た。所が鬼も十万億土から急ぎに急いで駈けつづけた為に、いささか疲労と飢とに悩まされていたものと見える。地獄では見も及ばぬ珍羞佳肴が、ズラリと目の前に列んでいたのであるから、責任ある使命も忘れて食い且つ飲んだ 。そこで使鬼もすっかり、いい気持になってしまって、衣女に言うには「何か恩がえしをしようとおもう、時にお前と同姓同名の者はどこかに無いだらうか」と尋ねた。 
 衣女は同国鵜垂郡に同姓同名の者が有ることを告げた。鬼どもは山田郡の衣女に案内させて、鵜垂郡の衣女の家に往って、合うや否や緋の袋から一尺の鑿(のみ)を取出して第二の衣女の額に打立て有無を云わせず、その場から地獄へ巡れて行ってしまった。
●2人の衣女
 閤魔王は罪人を調ぺて見たところ違っていたので、再び使鬼を派して山田郡の衣女を連行した。真の罪人が来たから、閻魔王は鵜垂郡の衣女を娑婆へ還してやった。所がここに困った事が起った、というのは、第二衣女が家に還り着いたのは死後3日目であった。で自分の遺骸は荼毘に附せられて一片の煙と化し去ってしまっていた。第二衣女は魂の寄る辺が無い旨を閻魔王に訴へ出た。
 閤魔王は少し面喰って山田郡衣女の遺骸の有無を尋ねた、第二衣女が「それは有ります」と答えたので閻魔王は「しからばそれをお前の身体とせよ」と命じた、かくて山田衣女は鵜垂郡の衣女の残骸を籍りて甦ると、「これは自分の家で無い」と言いはった。事情を知らぬ山田衣女の両親は驚いて、これが汝の家なる旨を諭したが、再生者はどうしても聴かないで、ズンズン鵜垂郡の家に往ってしまった。けれども鵜垂郡の家ではまた承知しない。「お前は内の衣女ではありません、内の衣女はとっくに火葬してしまったのです」といって、どうしても衣女の言を信じようとしない。そこで衣女も除儀なぐ地獄の秘事を打ちあけた。
 ここに於て両郡の父母も納得して、両家の資財を挙げて一人の衣女に附与した。衣女は四人の親と二家の宝を所有することになったのであるが是は偏に鬼に御馳走した結果である。であるから、およそ物あらばなお賂(まかない)饗(あえ)すべし、これまた奇異なり。と結んである。
 この話を整理すると、第一衣女の魂は冥界に残り、第二衣女は第一衣女の身体に宿って、4人の親の子として遺産を受け継いだ事になる。果たしてご馳走の結果は良かったとは思えないが。良い点があるとすれば、山田郡の家では娘の身体に会えるし、鵜垂郡の家では娘の魂に会えるということか?
 出典 吉澤義則著『国語説鈴』立命館出版(1931)

213 稀有書 89 白バイの始まり

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インディアン・モトサイクル(1920年写真www.wikiwand.com)

 「警視庁史」(大正篇・警視庁史編さん委員会1960)という書物には、大正時代の警視庁が扱った事件や法律が収録されており、当時の世相を知るのには大変に貴重な資料となっている。このなかには、交通事故とそれに対応する警視庁の取り組みを扱う記事があった。以下は、本書から白バイの発足と自動車免許の始まりをまとめてみた。
●白バイの始まり
 警視庁でオートバイによる交通の指導取締りをはじめて実施したのは、大正7(1918)年1月1日であった。日本に自動車が登場したのは明治30(1897)年で、その後次第に増加し、大正6年ごろには1300余台に達したという。自動車の増加に伴い、交通事故も増え、同年の事故は死者51名、負傷者3647名だった。
このため警視庁では、オートバイによる取締方策を決定。大正6(1917)年9月27日の警務通達第30号で、「自動車取締専務巡査勤務に関する件」を示達、まず取締専務巡査6名を選抜して取締りに専従させた。
 発足当時使用したオートバイは6台(インデアン5台、ライテングカー1台)で、これを麹町、愛宕及び上野の各警察署へそれぞれ1台あて配車、他の3台を予備車として本部で運用した。
 また取締りに使用したオートバイの車体を全部赤色に塗ったため、俗に「赤バイ」といわれ自動車運転者に恐れられた。この「赤バイ」は昭和11(1936)年に白色に塗りかえられ、こんどは「白バイ」と呼ばれて現在にいたっている。(682p)
●自動車運転手試験規則の制定
 大正13(1924)年7月24日、警視庁令第41号で「自動車運転手試験規則」が制定され、同年8月1日から施行された。自動車運転手の試験は、自動車の輸入とともに行なわれたようだが、規則が出来たのは、大正8年1月内務省令第1号の自動車取締令第15条に、
「運転手たらんとする者は主たる就業地の地方長官に願い出て、その免許を受くべし。免許を与えたるときは免許証を交付す。運転免許証は甲乙の2種とし、甲種免許証を有する運転手は、各種の自動車を運転することを得」(原文片仮名を平仮名に変更)と定められてからである。
 当時の試験は、試験場はなく、実地試験は日比谷附近の道路で、学科試験は本庁の廊下で行った。受験者は1日20人位で、うち合格者は5、6人程度という。その後、大正12(1923)年の大震災で、警視庁が焼失したたため、試験場がなく、赤坂紀尾井坂附近、芝公園内、代々木練兵場等で試験をやっていた。昭和4(1929)年8月に、洲崎に初めて自動車運転免許試験場ができたという。(709p)