シュールの効用

シュールの可能性を追求するブログ

(77) 「天然痘」で亡くなった皇帝たち

天然痘は天然痘ウイルスによって引き起こされる重度の感染症であり、患者が治癒した後も、顔にあばたができる。 国際保健機関は1980年に天然痘が世界中で根絶したと発表した。 しかし清王朝では、天然痘は横行し、ひどいものでした。

 清王朝(1636-1912 )の歴史の中で、この「天然痘」に常に悩まされてきたとは信じられないほどです。皇帝10人のうち、3代顺治帝(1638-1661)と10代同治(どうち)帝(1856〜1875)は天然痘で直接亡くなりました。康熙(こうき)帝と9代咸豊(かんぽう)帝は、幸運にも天然痘から生還できたが、顔に永久的なあばたを残したのです。

出典 「毎日頭条」(2016.11.22)

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3代顺治帝(1638-1661)

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10代同治(どうち)帝

 

(76) タージ・マハルのルーツ

歴史の世界は多くの点で、誤解されている可能性がある。世界的に有名なタージ・マハルは、ムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃マハルのため建設したと言われている。

この話は、「タージ・マハル」の著者であるP.N.オーク教授によって異議を唱えられた。 彼はタージ・マハルは元来マハル女王の墓ではなく、アグラ市のラージプートが崇拝していたシヴァ神のヒンドゥー寺院の宮殿と主張している。

オークは調査の過程で、シヴァ神殿の宮殿が当時ジャイプールのマハラジャであったジャイシンから、シャー・ジャハーンが奪ったことを発見した。その後、シャージャハーンは、宮殿を妻の記念廟に改造した。シャー・ジャハーンの公式記録では、アグラの大邸宅をマハルの埋葬のためにジャイシンから奪ったことを印しているという。

(資料 Taj Mahal - the True Story by P.N.Oak (1965)

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1 タージ・マハル 作者不詳(1835年)British Library蔵

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2 「象の戦いを見物するシャー・ジャハーン」(部分)(1639) (metmuseum.org)

 

(75) 大戦中のタージ・マハル

第二次世界大戦中、イギリス軍はインドのタージ・マハルが日独軍による爆撃に遭遇したら危険だと感じた。そこで彼らは1942年にタージのドームの上に竹の足場を配置した。上空から、敵のパイロットはそれを竹の大きな古い山と考え、したがって爆撃しないと考えたのでしょう。しかし、竹の覆いはこの時限りではなかった。 1965年と1971年にインドがパキスタンとの戦争を始めたとき、それぞれ行われたという。

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1 カモフラージュされたタージ・マハル

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2タージマハルの前のイギリス兵士 (資料 GettyImages, outlookindia.com 2019.4.21)

 

(74) インドの古習の悲劇

過去の戦争では、男性や子供たちは殺され、あるいは奴隷に売られた。一方、女性はレイプされて殺され、時には戦勝者の賞品となった。

インドの支配者層のカーストのラージプートは、彼らの女王と高貴な女性に、イスラム教の勢力によるそうした事態を防ぐための儀式、「ジョウハル(燃焼)」を制定した。

インドの歴史では、「ジョウハル」より有名なサティの慣習(夫の葬儀での未亡人の焼身自殺)があるが、この2つには大きな違いがある。「ジョウハル」は戦争中にのみ行われ、女性だけでなく子供も巻き込まれ、夫と妻の両方が生きているときに犯されたという。(資料・画とも Ancient Origins.net )

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図1 サティーを描いた絵画。この慣習はヒンズー教の未亡人に適用され、 1800年代に非合法化された

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図2 1568年のチットール要塞の崩壊。チットール包囲中のラージプート女性の「ジョウハル」。女性は敵に捕らえられるよりも滅びることを選び、この戦いで300人の女性が死亡した。

 

(73) 画家ローレンス・アルマ-タデマ

ローレンス・アルマ-タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836 - 1912)は、英国ヴィクトリア朝時代の画家。古代ギリシア・ローマなどの歴史をテーマにした写実的な絵を残し、ハリウッドの歴史映画に多大な影響を与えた。オランダのドロンライプ生まれ。パリへ移住したが、1870年にイギリスに帰化しロンドンに住む。1863年にポンペイの建築や調度品に魅せられ、当時を彷彿させる絵画を描いた。友人が彼に「あなたの好きな趣味は何ですか?」との問いに「絵画」と答えた。 彼の作品数は300から400点。彼の徹底性の例として、彼の「最初のスケッチ」は常にキャンバス自体に、モデルの助けを借りて行われた。(SIR LAWRENCE ALMA-TADEMA by P.C. STANDING 1905 画像 zeno.orgより)

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1 ローマのサンクレメンテ教会の内部 (1863)

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2 ジャグラー(1870)

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3 彫刻ギャラリー(1874)

 

(72) 広東十三行の火災

清朝時代の広州(こうしゅう)で、外国貿易を独占した商人団を広東(かんとん)十三行(じゅうさんこう)と呼んだ。1685年、第4代皇帝康熙(こうき)帝が海外貿易を許可すると、翌年には仲買商である広東十三行を指定し、商品の保管や関税の徴収に当たらせた。十三行といっても、13の商人団ではない。仲買商でも有力な商人が、広州に通じる珠江(しゅこう)の沿岸に倉庫や店舗を並べた。1757年以後、日本の「出島」と同様の唯一の貿易地となる。

(図版1、3=Rise & Fall of the Canton Trade System Gallery)

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広東十三行の火災初期 (1832年)

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2 広東十三行の火災(1832年)

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3 火災後の広東十三行(1832年)

 

(71) ダイムノーベルのミステリー

●「フレッド・フィアノット」の最初の冒険は、彼がエイボンアカデミーの学生だったときに起きた。 その後彼はエール大学に進み、それからウェストポイントに入学。そして最終的に世界中で冒険をした。 彼は犯罪を解決し、超自然的な謎を解き明かし、魔女、カルト、巨人、マフィアなどと戦った。

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1 フレッド・フィアノットとインドから来た友人(1904.8刊)

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2 フレッド・フィアノットと白衣の女(1905.10刊)

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3 フレッド・フィアノットと陰の手(1907.11刊)