シュールの効用

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226 稀有書 102 作家の自殺

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「本の手帖」1966年5〜6月号表紙

 「本の手帖」のテーマは表紙にある通り、「作家の自殺」である。取り上げられた作家は、ネルヴァル( 1808 - 1855)、ガルシン(1855 - 1888)、ヴァン・ゴグ(1853 - 1890)、ソビエト作家、マヤコフスキー(1893 - 1930)、バスキン(1885 - 1930)、ハート・クレイン(1899 - 1932)、ウルフ(1882 - 1941)、ツヴァイク(1881 - 1942)、ドリュ・ラ・ロッシュエル( 1893 - 1945)、ヘミングウェイ(1899 - 1961)である。
 ここでは高田博厚(1900 - 1987)の「ツヴァイクと自殺」を紹介。
●ツヴァイクと自殺/高田博厚
 ある日ツヴァイクの死(1942年2月22日)の報が私に入ったので、私はロマン・ロラン(1866 - 1944)に電話で知らせた。その次に彼を訪ねた時、「ツヴァイクの死についての後の知らせはないか?」と訊いた。「詳しくはわからないのだが、恋愛問題がからんでいるらしいですよ。」私はその時のロランの表情をおぼえている。「そうだったか……」と云ったような、驚きの影はすこしもなく、ただ淋しそうに微笑した。
 2人は古い親友だった。そして私もまたツヴァイグには一度会っていた。彼がドイツを去って南米に去る途中、パリに立ち寄った時だった。そして遠いところで死んでしまったこの人の死の原因を模索するような気持だった。恋愛問題があったということ、そしてたぶんそれが因での自殺らしい。
 また後で、情死だった、しかも情死ではあったが、別々に自殺したのだということを知った。ツヴァイクの人柄やその沢山の作品と照し合せて、どういう風た解釈して好いものか?解釈することが嫌いな私はべつにせんさくはしてみなかったが、やっぱりツヴァイグとして当然事のような気もした。(415p)
 ツヴァイグはモーツァルトが生れたザルツブルグの丘の上の豪壮な家に住んでいて、家の中は蒐集品でいっぱいだったという。これは一度彼の家を訪ねたことのある片山敏彦(1898 - 1961)からきいた。「君、ガラスびんの中に毛が一本あってね。…これがベートヴェンの頭髪だ、とうやうやしく見せたよ」と感嘆していた。
 そしてツヴァイグに会ったのはパリでだった。ナツィズムが荒れ狂うドイツを去って、南米に行く途中だった。(1933年頃か?)たが、ツヴァイグに会った時は、彼ひとりではなく連れがあった。それが誰だったか、今どうしても思い出せない。…ひじょうな美男で、隅々まで行き 届いてしゃれているという感じ。(417p 以上抜粋、生誕年代は編者)

●「エクスペディア」(2021)の記事
 1933年ヒトラーのドイツ帝国首相就任の前後からオーストリアでも反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。
 ツヴァイクはその後、英国(バースとロンドン)に滞在し、1940年に米国へ移った。1941年にはブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した二番目の妻であるロッテとともに、バルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。
●「エクスペディア」英語版(2021)の記事
1942年2月23日、ツヴァイクはペトロポリス市の自宅で手をつないでバルビツール酸過剰摂取で死亡しているのが発見された。彼はヨーロッパとその文化の未来に絶望していた。 「知的労働が最も純粋な喜びと個人の自由が地上で最高の善を意味する人生を、良い時期にけりをつける方が良いと思う」と彼は書いた。

225 稀有書 101 革命の恐怖

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・ヴィクトワール広場にあるルイ14世の彫像を下ろす図

 書名「フランス革命における象徴と風刺」アーネスト・ヘンダーソン著(1912)
●フランス革命(1789.7.14. – 1795.8.22.)
 1789年7月14日は、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領した日を、フランス革命の勃発とされている。
 1791年6月20日に国王ルイ16世の逃亡があったが、ヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された。約1年半後の1793年1月21日にギロチンにかけられる。93年10月16日には、王妃マリー・アントワネットも処刑された。
 1年後の1794年7月27日、フランス革命暦II年、テルミドール9日に起きたクーデタで、フランス革命を主導していたロベスピエール派独裁に対立する勢力によるクーデターで、一連のフランス革命は終焉したとされ、市民革命は終わりを告げた。
 1795年8月22日に普通選挙制による採否を問う投票が行われ、9月23日、新憲法が公式に発足した。なおバスチーユ監獄襲撃の一周年を記念して翌1790年7月14日におこなわれた全国連盟祭が、「フランス革命記念日」(パリ祭)の起源となっている。
 本書は、当時の事件を風刺したカリカチュア(風刺画)を用いて歴史を解説するユニークな編集となってる。

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・ルイ16世を救う唯一の希望は、上空に浮かぶブランシャールの気球に乗ること。 

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・コンシェルジュリーの独房にいるマリー・アントワネット。
右図は、セルの配置と憲兵が占めるセルの配置。

 資料 Symbol and Satire in the French Revolution. By Ernest F.Henderson. G. P. Putnam's Sons 1912

224 稀有書 100 シヴァ神の顕現

 生きている神であるシヴァは、すべてのカテゴリーを超越している。最も古い神聖なインドの経典である「リグ・ヴェーダ」(1200 B.C.)は、彼を野生の神、ルドラと呼んでいる。
 現代のヒンドゥー教では、最も影響力を持つ3柱(ブラフマー=創造、ヴィシュヌ=維持、シヴァ=破戒)の主神の中の1人であり、特にシヴァ派では最高神に位置付けられている。
 本書は、シヴァ神の彫刻、処理画像と祭壇画、そして絵画から構成されており、以下の絵はその中にある3点である。

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●半身が女性である主シヴァ(アルダナーリーシュヴァラ)

 男性(シヴァ)と女性の半身(パールヴァティー)による完全な全体性がここに示されている。

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●5頭のサダーシヴァを崇拝する女神パールヴァティー

 黄金色の蓮の花にヨガのポーズで座るサダーシヴァは、愛らしさの縮図であるパールヴァティーに崇拝されている。 彼の9本の手には悪を調伏する道具が握られている。

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●祝福された女神カーリー(バドラカリ)

  シヴァの妻の一柱である闇の女神バドラカリは、黒い地面に浮かぶ金色の光のなかに包まれている。血と殺戮を好む戦いの女神として、冠をかぶり、蓮の花を飾り蛇をあやつる女神として、横たわる裸の男の死体の上に立っている。踏みつけられている死体の髪で、死者の幽霊であるプレタ(餓鬼)と区別される。
 資料 MANIFESTATIONS OF SHIVA by STELLA KRAMRISCH PHILADELPHIA MUSEUM OF ART 1981

223 稀有書 99 シュールなインド宗教画

 インドのヒンドゥー教徒の間で発達したミニアチュールには、クリシュナ伝説やシバ神話などを主題としたものが多い。題材が神話であるので、「童話の挿絵みたい」といえないこともない。
 こうした素朴な絵画も多くは海外の美術館に収められ、もはや庶民がインドで安く手に入れることは出来ない。それは日本の浮世絵と同じかもしれない。

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●ガルーダとヘビの戦闘

 悪魔の将軍が無数の蛇を神々に放り投げると、神々はガルーダに命じヘビに襲いかかる。 ここでは、彼らが鋭くて強力なくちばしで蛇を傷つけて殺している。

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●丘に火を発する行者

 奇跡を起こす若くてハンサムな行者は、虎の皮の上座って定期的に火の犠牲を実行する。 この修行を多くの老若男女が見学している。

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●悪魔アガの殺害

 クリシュナが牛と友達を連れて牧草地に行くと、ニシキヘビに化けたアガが彼らを待っていた。アガは口を大きく開けたので、それは森を通る小道のように見えた。疑いを持たない牛と牛飼いがそこを通り、アガの口に足を踏み入れたが。
 出典 ESSENCE OF INDIAN ART by B.N.GOSWAMY. ASIAN ART MUSEUM OF SAN FRANCISCO.,1986

222 稀有書 98 コロンブスとユダヤ人

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コロンブスと彼の乗組員( 写真GETTY)

    著書『クリストファー・コロンブスと、探検へのスペインとポルトガルのユダヤ人の参加』 M.カイザーリンク(1894)
 スペイン王国は1492年1月、イスラーム教国ナスル朝の拠点であるグラナダを陥落させ、イスラーム勢力はイベリア半島から撤退した。これにより、ムスリムだけではなくユダヤ教徒もスペインから追放された。
 1492年8月2日、30万人のユダヤ人はスペインを離れ、アフリカ、トルコ、ポルトガル、イタリア、フランスに定住した。その記憶に残る日、コロンブスの艦隊は西回りでインドに向けて出発した。そのなかにユダヤ人が多く乗っていてもおかしくはない。コロンブス自身ユダヤ人ダッタという説があるくらいだ。しかしそれは当然秘密にされた。以下はカイザーリンクの書の抜粋。
●コロンブスの艦隊のユダヤ人。
 1492年8月2日、スペイン系ユダヤ人は放浪を始め、翌8月3日金曜日、コロンブスは3隻の船、サンタマリア号、ピンタ号、ニーナ号を乗せて、インドへの海路を目指した。彼は最初の航海に120人以下の男性、ほとんどすべてのカスティーリャ人とアラゴン人が同行した。彼らの多くはパロスからの者で、グアダラハラ、アビラ、セゴビア、カセレス、カストロヘリス、レデスマ、ビラー、タラベラからの者もいた。これらすべての都市には大小のユダヤ人居住地があった。(89p)
●キリスト教に改宗した者は許された。
 コロンブスの艦隊の下に、ユダヤ人の家系がいたのだろうか? 彼の危険な航海に同行することをいとわない男性を見つけることは容易ではなかった。
 犯罪で有罪となった人でさえ、新兵に登録することを条件に刑務所から釈放された。追放の影響下にあり、迫害され、家を失ったユダヤ人が、航海に参加するのこばむ理由があっただろうか? 名前が伝わった探検家の仲間の中には、完全なリストが失われている。ユダヤ人の家系の男が何人かいた。たとえば、ムルシアの知事の下に地位を占め、コロンブスが出航する直前に洗礼を受けたユダヤ人ルイス・デ・トーレス。彼はヘブライ語、カルデア語、そしてアラビア語を理解したので、コロンバスは彼を通訳として雇っている。
    資料 CHRISTOPHER COLUMBUS AND THE PARTICIPATION OF THE JEWS IN THE SPANISH AND PORTUGUESE DISCOVERIES BY DR. M. KAYSERLING, LONGMANS, GREEN, AND CO. 1894

221 稀有書 97 ポンパドゥール夫人の蔵書

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ポンパドゥール夫人(ブーシェ画1756 部分)

 ポンパドゥール夫人(1721 - 1764)は、ルイ15世の公妾。1721年パリ(現在のパリ2区界隈)の銀行家の娘として生まれる。1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まる。彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年9月14日正式に公妾として認められる。   
 彼女は学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結ぶ。
●彼女の蔵書目録(1765)
 書籍の分類は、神学、法学、教会法、科学と芸術、薬品、医学、数学、文法、レトリック、詩、神話、小説、歴史などに分類され、その册数は3,525冊、音楽は235册である。
 そのうち、よく知られている書物に、プラトンの『国家』、クセノホン『饗宴』、キケロ『神々の本性』、ルソー『パンセ』(1763) 、マルブランシュ『真理の探究』(1735版)、『モンテーニュのエッセー』(1588)、『ラブレー全集』、ミルトン『パラダイス・ロスト』(1729版)がある。
  資料「故ポンパドゥール夫人の女王の宮殿の文書館カタログ」(1765) CATALOGUE DES LIVRES DE LA BIBLIOTHÈQUE De FEUE MADAME LA MARQUISE DE POMPADOUR, Dame du Palais de la Reine. Jean-Th. Hérissant, Imprimeur du Cabîner du Roi, Maifon & Bâtimens de Sa Majesté',1765

220 稀有書 96 プチトリアノン

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プチトリアノン正面図

 プチトリアノンは、ルイ14世(在位: 1643 – 1715)がベルサイユ宮殿の北西に建てた離宮「大トリアノン宮殿」の敷地に、ルイ15世(在位:1715 - 1774)が設置した植物園の中に建てられた。
 この建物はルイ15世の愛人マダム・ド・ポンパドゥール( 1721-1764) のために計画され、1762年から1768年の間に建設された。しかしポンパドゥールは完成前に亡くなり、その後彼女の後継者のマダム・デュ・バリー(1743 - 1793)が所有した。
1774年に王に即位したルイ16世(在位:1774 - 1792)は、この小宮殿と周辺の庭園をマリーアントワネット王妃(1755 - 1793)に与えた。

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マリー・アントワネットが集めた日本の漆工芸品

資料 Marie-Antoinette and the Petit Trianon at Versailles by Martin Chapman (2007)